幼少の頃孤児となり、魏の年末の政治的に不安な時代を生きたが、自由奔放な性格と、魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦め、琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたという。従って老荘を好み、官は中散大夫に至ったが、山濤から役を譲られようとした時、絶交書を送った[2]。 曹操の曾孫娘の長楽亭主(曹林の孫娘)を妻とし[3]、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、?中散とも呼ばれる。 非凡な才能と風采を持ち、日頃から妄りに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と、清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めなかった。友人の山濤が自分の後任に?康を吏部郎に推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『文選』所収)と書いて彼との絶交を申し渡した上で、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前、子の?紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものであった。 ?康の親友であった呂安
経歴
当時、汲郡に孫登という道士がいた。?康は山に薬草を採りに行った時に知り合い、彼の元に3年通っていた。しかし、孫登が一言も口を利こうとしなかったため、?康は別れ際に「先生[6]、まだ口を利いてはいただけないのでしょうか」と尋ねた。そのため孫登は、初めて口を開き「あなたは多才だが見識が乏しい。今の世の中では難を免れるのは難しいぞ」と言った[7]。結局、?康は死刑という難を免れる事ができなかった。
?康は「琴(きん)」を演奏する事を好んでおり、ある時に見知らぬ人物から「広陵散」と呼ばれる琴の曲を学び得意としていたが、誰にもそれを教えなかった。刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという[8]。「声無哀楽論」・「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していた。
著作は他に「養生論」・「釈私論」があり、詩は「幽憤詩」・「贈秀才入軍五首」などの四言詩に優れていた。
出典
房玄齢等『晋書』巻49 ?康伝
脚注^ 『晋書』?康伝によると享年40。『資治通鑑』では没年を景元3年とし、ちくま学芸文庫『三国志』の年表もそれに準ずるが、没年については諸説ある。
^ 藤野岩友・大矢根文次郎・西岡弘・佐藤一郎・浅野通有編 編『中国文学小事典』高文堂出版社、1982年、97頁。
^ 『三国志』魏書 曹林伝注『?世譜』
^ 『文選』所収の向秀「思旧賦」李善注が引用する干宝『晋書』より。
^ なお『世説新語』簡傲篇によると、?康の留守中に呂安が訪問した際、?康の兄の?喜(?紹の後を継いだ?翰の曾祖父)がいたので、呂安は門戸の上に「鳳」と記して立ち去った。?喜はその意味を知らずに喜んだが、実はこれは「凡鳥(「鳳」を二字に分解した)」を意味していたという逸話がある。
^ 日本語の「先生」とは異なり、一般的な敬称。ここでは無位無官の相手への敬称として使っている。
^ 『三国志』魏書 王粲伝付 ?康伝注『魏氏春秋』、及び『晋書』孫登伝。
^ 『世説新語』雅量篇より。
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。?康の作品
表
話
編
歴
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
太祖武皇帝曹操
巻2 文帝紀
文皇帝曹丕
巻3 明帝紀
明皇帝曹叡
巻4 三少帝紀
斉王曹芳
高貴郷公曹髦
陳留王曹奐
巻5 后妃伝
武宣卞皇后
文昭甄皇后
文徳郭皇后
明悼毛皇后
明元郭皇后
巻6 董二袁劉伝
董卓
李?
郭
袁紹
袁譚
袁尚
袁術
劉表
巻7 呂布臧洪伝
呂布
張?