崇源院
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他方で、『以貴小伝』では享年を54としており、これから逆算すれば生年は天正元年(1573年)となり、『幕府祚胤伝』でも天正12年(1584年)に12歳であったと書かれているので、天正元年出生説が有力とされていて[2]宮本義己はさらに分娩時期を計算して誕生月を8月と推定している[1]

乳母には民部卿局がつけられた。上記の小谷出生説に異論を唱える史料もあり、延宝7年(1679年)に成立した『安土創業録』(蓬左文庫所蔵)では、小谷城を脱出したのはお市の方と娘2人であり、お市の方は岐阜で江を出産したとある[10]

天正元年9月1日(1573年9月26日)、浅井長政が市の兄である織田信長と対立し、小谷城が攻め落とされ、長政らは自害し浅井氏は滅亡する。江は母の市や姉の茶々、初とともに藤掛永勝らによって救出され、信長の保護の下岐阜城に留まり、伊勢上野城三重県津市)主で信長の弟の織田信包に預けられたとされてきたが[15](『信長公記』・『総見記』・『 浅井三代記』)[注釈 8]、近年の研究によると母の市と三姉妹は尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次(江には大叔父にあたる)に預けられたことが明らかとなっている(『渓心院文』)[16]。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後、信長の岐阜城に転居することになる[17]

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において信長は、家臣の明智光秀による謀反で横死する。6月27日、織田家の後継者を決める清洲会議により、母の市は織田家臣の柴田勝家と再婚して、勝家の居城である越前国北ノ庄城へ移り、三姉妹も越前へ移る。勝家は羽柴秀吉と敵対し、天正11年(1583年)には賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、市は勝家共々自害する。江ら三姉妹は北ノ庄を脱出して秀吉により保護されたとされる(『以貴小伝』)、また三姉妹を保護したのは秀吉ではなく織田信雄ともいわれている[18]

この頃、江は秀吉の意向により、尾張国知多郡大野領主で信長の次男・織田信雄の家臣であり、従兄にあたる佐治一成のもとへ嫁いだという(『太閤素生記』・『柳営婦女伝系』・『玉輿記』)。佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたという[19]。江と一成の婚姻時期・事情については記録が見られないが、天正12年(1584年)に秀吉は小牧・長久手の戦い徳川家康・織田信雄と戦い、信雄方の一成は戦後に大野を追放され、江とも離縁したといわれる経緯から、同年初めに想定されている[19]。小牧・長久手における一成の動向などは『柳営婦女伝系』『以貴小伝』『玉輿記』などに記され、一成は家康に渡船を提供した佐屋の渡一件により秀吉の怒りを買い、追放されたという。また、一成は信雄家臣で秀吉に内通した星崎城主・岡田重孝に加担して信雄に追放されたとする説もある[20]。文書上においては小牧・長久手以降にも一成の名は見られるものの、天正13年(1585年)作と推定される『織田信雄分限帳』においては一成の名が見られず、小牧・長久手後の論功行賞において一成は大野を追放されたと考えられている[21]

一方で、近世の鳥取池田家に伝来する佐治氏の由緒書には、婚姻を信長存命時の天正2年(1574年)としている[注釈 9]。同年には一成の父・信方が戦死し[20]、信方戦死後にお犬の方は織田家に戻って他家へ再嫁していることから、江と一成の婚姻は信長の意向により織田家と佐治氏の関係を修復する意図であった可能性も考えられており、また婚約のみで実際に嫁いでなかったとする説もある[23]。上記の説以外にも、江を佐治一成に嫁がせたのは秀吉ではなく、織田信雄であったとする指摘もある[24]
豊臣秀勝への再嫁

その後、秀吉の実の甥で養子の丹波国亀山城主京都府亀岡市)・豊臣秀勝の元へ嫁ぐ。秀勝への再嫁時期は不明である。『兼見卿記』の天正13年10月20日条によると、同年10月18日頃に秀勝に嫁いだと記されているが、通説はこれに否定的である。それは織田信長の子で秀吉の養子になっていた羽柴秀勝が天正13年12月に没していて、その後継者とされる豊臣秀勝が羽柴秀勝存命中に「秀勝」を名乗り出ることはない、と考えられているためである。そのため、秀勝が秀吉の養子となった天正14年(1586年[25][20]以降、または文禄元年(1592年[19]、もしくは天正19年(1591年)3月から文禄元年(1592年)2月24日までの間[26]と考えられている。しかし、豊臣秀勝も天正13年9月時点で既に「秀勝」を名乗っていたことを示す文書が複数残されており、2人の「秀勝」が併存していた時期があるとして、天正13年10月の婚姻で間違いないとする説も出されている[27]。なお、この頃には茶々は秀吉の側室、初は京極高次正室となっていると考えられている。

秀勝は秀吉の統一事業に従って九州征伐小田原征伐に従軍し戦功を挙げた、天正18年(1590年)11月には徳川家康の関東移封に伴い、徳川家旧領であった甲斐信濃を与えられている。翌天正19年(1591年)には岐阜に転封となっているが、江は京都聚楽第の秀勝の屋敷に居住し、甲府や岐阜へは赴いていないと考えられている[28]。秀勝は文禄元年(1592年)に秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中の同年9月に朝鮮国の巨済島において病死している。秀勝と江の間には娘の完子(幼名不詳)がおり、生年は不詳であるが、文禄元年か翌年中であると考えられている。完子は茶々の猶子として引き取られ、同格の摂関家である九条家に嫁いでいる。
徳川秀忠への再嫁から晩年焼失前の崇源院霊廟

文禄4年(1595年)9月17日には伏見において徳川家康の嗣子である秀忠に再嫁する。秀忠は天正18年(1590年)に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の死去により婚礼には至らなかった。秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に家光・忠長和子など2男5女を儲けた。

慶長5年(1600年)、豊臣秀頼ハ見寺の堂宇を増築し、織田信長廟を安土城天主跡に造営しているが、その後、江が西尾隠岐守義次に造営を命じている[29][10]

大坂の陣では豊臣家が滅亡して姉の淀殿を失う。元和2年5月7日に養源院で淀殿・秀頼の菩提を弔う[30]。淀殿が父・浅井長政の供養のために建立したこの養源院が、元和5年(1619年)に火災で焼失すると、江の願いで元和7年(1621年)に幕府が再建している。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。法名は「崇源院殿昌譽和興仁C大禪定尼」。この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。11月28日、従一位を追贈される。

死後は長男・家光によって増上寺東京都港区)に埋葬された[注釈 10]

京都市左京区黒谷町の金戒光明寺には宝篋印塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽仁C」。和歌山県高野町金剛峰寺には、五輪塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。


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