崇徳天皇
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これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。

7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳院に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。

7月10日には、藤原頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長平家弘源為義平忠正などの武士が集結する。崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳院は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子の清盛が味方になることに一縷の望みをかけた。重仁親王の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の平頼盛に清盛と協力することを命じた[8]。後白河天皇方は、崇徳院の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」[9]として武士を動員し、11日未明、白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらました。
讃岐配流

崇徳院は源為義・平家弘らに擁されて東山如意山に一旦逃れるが、投降を決意して剃髪し、武士らと別れる[10]。13日、崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため[注釈 4]、崇徳院は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた[12]。崇徳院が剃髪して投降した背景には、薬子の変で挙兵に失敗して出家した平城上皇が、実権を失いはしたが自ら選んだ隠棲地の平城京で手厚い待遇を受けて余生を送った先例があったとされる。しかし、薬子の変の時代と異なり保元の乱の時代には上皇が在家出家を問わず院政を行う慣例が確立していたため、出家は権力放棄の保証にならなかった。また、万一に守仁親王が薨じた場合、中継ぎとして即位した後白河天皇の脆弱な立場の根底が崩れ、家長として崇徳院が院政を行う可能性を排除できなかった[13]柳田(上皇の暗殺地とされる)

23日、崇徳院は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国へ下った。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされ、その地に柳田(大正10年1月府中村建立北緯34度17分46.82秒 東経133度55分1.45秒)として石碑が立っている。
配流先での生活

保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経[14]の写本作りに専念して(で書いたかで書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込んだ。そして崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になり、後に天狗になったとされている。また崩御後、崇徳のから蓋を閉めているのにもかかわらず血が溢れてきたと言う。

一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」[15]という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」[16]と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である。

崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。
怨霊伝説讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)白峯神宮(京都市)崇徳天皇白峰御陵『椿説弓張月』より崇徳上皇が@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面[要出典](歌川芳艶画)

保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた。それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命[17]にも表れている。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇(崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」[18]と後白河院はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」[19]とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。

ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。この年は延暦寺強訴安元の大火鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。


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