応永5年1月13日(1398年1月31日/グレゴリオ暦2月8日)、失意のうちに崩御。宝算65。
没後30年目の正長元年(1428年)、貞成親王の子で、崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が、2人の息子に先立たれて後継者を失った後小松院の猶子として即位し、血統上ではあるものの崇光の皇統は天皇家に返り咲いた[注 3]。その後、貞成親王に後花園天皇の「傍親(兄)」として尊号宣下が行われた[9]。貞成が死後に上皇として贈られた院号は、後崇光院であった。 琵琶に関する著作を多数書写したほか、日記として『崇暦御記』『不知記』が残る。 神祇をよませ給うける (大意:鈴鹿川の数多の流れで、波が立ったり静まったりするなかでも、私の身のための治世など祈らない。) 崇光天皇の系譜 【持明院統】
著作
御製
鈴鹿川 やそせの波の たちゐにも 我が身のための 世をば祈らず[10]
系譜
16. 第89代 後深草天皇
8. 第92代 伏見天皇
17. 洞院?子
4. 第93代 後伏見天皇
18. 五辻経氏
9. 五辻経子
2. 北朝初代 光厳天皇
20. 西園寺実兼
10. 西園寺公衡
21. 中院顕子
5. 西園寺寧子
22. 藤原光保
11. 藤原兼子
1. 北朝3代 崇光天皇
24. 正親町三条公貫
12. 正親町三条実躬
25. 吉田為経
6. 正親町三条公秀
26. 聖海(高倉天皇皇孫)
13. 聖海女
3. 正親町三条秀子
系図
〔北朝〕 【大覚寺統】
〔南朝〕
96 後醍醐天皇
光厳天皇 北1 光明天皇 北2 97 後村上天皇
崇光天皇
〔護聖院宮家〕
(伏見宮)栄仁親王
(初代伏見宮) 後円融天皇 北5 (不詳)
〔玉川宮家〕 小倉宮恒敦
〔小倉宮家〕
(伏見宮)貞成親王
(後崇光院) 100 後小松天皇 北6
102 後花園天皇 貞常親王
〔伏見宮家〕 101 称光天皇
妃・皇子女
典侍:庭田(源)資子(按察典侍) - 庭田重資女
第一皇子:栄仁親王(1351年 - 1416年) - 伏見宮家初代当主
第二皇子:興信法親王(1358年 - 1391年)
女御:安福殿女御
宮人:三条局
第一皇女:瑞宝女王
第三皇子:弘助法親王
なお、足利尊氏は娘の鶴王(頼子)を妃にすることを計画していたらしく、早世後の文和4年(1355年)に夫人の称号と従一位が贈られている。 遺詔により「崇光院」の院号が定められた。 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町泰長老にある大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)に治定されている。
諡号・追号・異名
在位中の元号
貞和 (1348年10月27日)- 1350年2月27日
観応 1350年2月27日 - (1351年11月7日)
陵・霊廟崇光天皇 大光明寺陵
(京都府京都市)