島田裕巳
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後に「オウムの犯罪行為が明らかになった今日の現状から考えれば、より積極的に対処すべきだったかもしれない」と@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}著書[要出典]の中で述懐している。
著書『いま宗教に何が起こっているのか』

講談社から出した著書『いま宗教に何が起こっているのか』で「私たちは、オウム真理教の奇妙な行動にふれるたびに、その裏になにかが隠されていると考えてしまいがちだが、かれらの行動や主張はむしろ文字通りに受け取るべきではないだろうか」と擁護した[12]

このような姿勢についてジャーナリストの江川紹子が自宅を訪ねてインタビューしたところ、第一声は「オウムに興味ないもん」であった[12]。江川紹子は「自分の発言の重みをどう考えているのか」と書いている[12]

また「教団とは信頼関係はないが、麻原との個人的関係はある。僕も悪い奴だとは思っていない。彼は夢想家。それにすがる人が出てきたので拡大した。(問題とされる点はあるが)麻原は関与してないと思う。彼の考えている通りに信者がやっているかというと、それは違う」と語った[12]。これに対し江川は「問題があっても、悪いのは教祖の考えを反映できない下々の信者の責任であるというのでは、信者の発想と一緒」「宗教学者としての島田氏の致命傷」「教団の隅から隅までを把握し、自分の意思を反映させなければ気が済まない麻原教祖の性格、教団の最も重要な特徴を見誤っている」と書いている[12]

「オウムは半分僕を利用している」と分かっていながらオウム擁護の意図については「別にそういうことはない」「彼らはそう言っている、彼らはそう考えている、と書いているだけ」と主張した[12]。江川は「これではオウムのPRに利用されるだけ」と書いている[12]
『宝島30』1995年3月号

松本サリン事件がオウム真理教による疑惑との報道が始まった1995年(平成7年)1月25日、第7サティアンを単独取材し『宝島30』1995年3月号にレポートを発表した[12][13]

まずオウム顧問弁護士の青山吉伸にインタビューし、その後1994年の悪臭騒ぎが起きた場所に近いオウム施設第7サティアン内部(強制捜査後発覚することになるが、実は発泡スチロール製のシヴァ神像で偽装されたサリンプラント)を「取材」し、オウムに求められるまま「『いかにも神聖な宗教施設』という印象なのである」「結局のところ、オウム真理教は、この四年間のあいだに、より宗教教団らしい集団に発展してきたことになる」「これから、オウム真理教という特殊な宗教集団は、どういった方向に進み、また社会とどのような関係を結んでいくことになるのだろうか。サリンとのかかわりよりも、重要なのはそういった点であるのかもしれない」と書いている[12]

これに対し江川は「私の目にも、オウムの変化は見える。ただ、それは島田氏とはまったく別の意味でだ。この団体は以前にも増して、お布施や信者集めに熱心になり、その手段もより大胆に荒っぽくなってきている。このような変化には島田はほとんど目を向けず、オウム側の説明を無批判に受け入れている」「(松本サリン事件で7名の人が亡くなりまた多くの人が後遺症で苦しんでいる)サリンの問題は、教団の行く末よりも後回しにされるような些細な問題だろうか」と批判した[12]

特集の最後に載せた論文『毒ガスと世界最終戦争』では、オウム側の説明を無批判に受け入れ「何か具体的な証拠があるから彼らは疑われるのではなく、最初から疑惑が向けられる構造になっているのである」と書いた[12]
島田裕巳宅爆弾事件

第7サティアンに続きオウムはさらに島田を利用し、地下鉄サリン事件が反オウムの者による犯行と見せかけるため、地下鉄サリン事件直前の3月19日に島田の(以前住んでいた)マンションに爆弾を仕掛け、起爆させた(島田裕巳宅爆弾事件)。
1995年3月22日東京新聞

地下鉄サリン事件が発生し強制捜査で同施設にサリン製造プラントの存在が明らかになった直後の1995年3月22日、東京新聞に「(第七サティアンについて)私が見た限りでは宗教施設だった。カモフラージュしていれば別だが、そんな感じではなかった」とコメントした。(中略)その閉鎖性については「麻原さんがいればオープンだが、いまの幹部では決断力が劣る」。そして「修行は外部の人には理解できない。土地トラブルなどお布施には利害が絡むので、社会とあつれきを生むのは必然的だ。しかし、教団はゆっくり発展していく」とみる。一連のサリン事件については「オウム側か、国家権力による謀略か分らないが(教団と)何らかの関係はあるようだ」。ただ、強制捜査については「法的にいろいろ問題がある。情報がないのに、怪しい事実があるというだけで捜査したのではないか」と疑問視した。
『宝島30』1995年6月号

『「罪深き」私にとってのオウム』を発表。オウム真理教がなぜサリンを製造し、それを使用しなければならなかったのか、その動機についてはまだ見いだせない、としてサリン事件をオウム真理教の仕業であると決め付けてはいけないとの見解を示した。
日刊スポーツの名誉毀損

オウム真理教の一連の事件が次々に明るみに出ると、各種のメディアから島田に対する批判や、根拠のない誹謗中傷が相次いだ。『日刊スポーツ』の一面で、島田が同教団から幹部用の教団名ホーリー・ネームを授かっている、学生をオウムの信者に勧誘したとなどと報じられ[14]、大学から休職処分を受け最終的には大学教授の辞職へと追い込まれた。島田は日刊スポーツを名誉毀損で提訴。公判の過程で、日刊スポーツの記事には裏付けが一切取られていないことが明らかとなり、新聞社側に賠償金支払いと謝罪広告の掲載が命じられ、島田の全面勝訴となった。
その後

東京大学先端科学技術センターの御厨貴政治学研究室の特任研究員を経て、2008年(平成20年)4月より同センター客員研究員に就任。著作活動を中心に活動している。
『「オウム」は再び現れる』での分析

2018年に出版した自著『「オウム」は再び現れる』では、オウム真理教の信者が麻原の指示を断ったり指示に疑念を抱いたりしなかった理由として「結局それを断るのが面倒だったからではないか」と分析していた。また、オウム真理教が急激に勢力を伸ばした要因として、バブル景気を味方につけ、不動産取引で資金を稼いだことを挙げた。


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