それまで島津家は将軍家や有力大名との婚姻を避ける傾向があった。しかし、重豪は積極的に政略結婚を進める政略に転じ、将軍・家斉に娘を娶わせ、中津藩や福岡藩などの有力譜代大名や外様の大藩に息子たちを養嗣子として送り込んだ。これによって江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、「高輪下馬将軍」と称された。 一方で、これらの政策実行による莫大な出費は、最後には大名貸しから資金調達を拒絶され、遂に市井の高利貸しからも借金する(500万両、現代の価値で約5000億円)羽目となり、後世の史料では「薩摩藩が天文学的な借金を抱える原因を作った殿様」として家臣に糾弾されている。 10代で死去した母や20代で死去した父とは対照的に重豪は非常に頑健な人物であった。80歳を越えても鹿児島から江戸、長崎と各地を東奔西走し、当時の侍医は「80歳だがなおも壮健。書を書くとき、読むときも眼鏡を必要とせず」とまで記している。 また大変という表現すら不足なほどの恐るべき酒豪であり、酒の相手をするのも一苦労であるため、諸家では重豪がやってくるのを(酒の相手をしなくてはならないのを)嫌ったとされる。この重豪を唯一飲み負かすことができたのが牧野千佐であり、彼女は後に重豪の側室となって十三男の黒田長溥を生んでいる。重豪69歳の時の話である。 ※日付は旧暦
浪費家
超人的な活力
西洋人から見た重豪
オランダ商館長であったイサーク・ティチングの日本についての情報収集に貢献していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ
オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフの『日本回想録』に、「重豪は、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩を結合させ、諸侯を服従させようと企てている」ことが記されている[6]。
オランダ商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルの業務日誌およびシーボルトの『NIPPON』に、知的好奇心旺盛な重豪とその次男の中津藩主・奥平昌高に関する詳細な描写が見られる[7]。
官歴
宝暦3年(1753年)12月15日、元服し、兵庫久方と名乗る。
宝暦4年(1754年)7月、善次郎久方と改める。8月4日、藩主世嗣となり、又三郎忠洪と改める。
宝暦5年(1755年)7月27日、藩主となる。
宝暦8年(1758年)6月13日、将軍・徳川家重の名を一字賜り、重豪と名乗る。従四位下、左近衛権少将兼薩摩守に叙任。
明和元年(1764年)11月13日、従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任する。薩摩守如元。
天明7年(1787年)1月29日、隠居。1月30日、上総介に遷任。左近衛権中将如元。
天保2年(1831年)1月19日、従三位に昇叙する。
系譜
父:島津重年(1729-1755)
母:島津都美(とみ、1727-1745) - 垂水島津家9代島津貴儔の長女
養妹:梅(母・都美の妹、佐土原藩主・島津久柄正室。なお、養妹になったのは父・重年の死後)
正室:保姫(1747-1769) - 徳川宗尹の娘
長女:於悟(悟姫とも、宝暦13年(1763)11月-明和元年(1764)7月26日)
継室:綾姫(多千姫、玉貌院、権大納言・甘露寺規長の娘、?-安永4年(1775)10月26日)
側室:慈光院(お登勢の方、?-1801) - 市田貞行の娘
次女:敬姫(奥平昌男の婚約者、明和7年(1770)8月21日-天明8年(1788)4月24日)
三女:広大院(茂姫、於篤、1773-1844) - 徳川家斉御台所
四女:於夏(於厚とも、安永5年(1776)4月-安永7年(1778)6月13日)
六女:牧姫(於陽、安永7年(1778)2月-天明4年(1784)7月26日)
側室:春光院(お千万の方、1747-1811) - 中納言・堤代長の娘
長男:島津斉宣(1774-1841) - 9代藩主
五女:於克(安永5年(1776)11月-安永7年(1778)5月3日)
三男:(名前未詳、天明2年(1782)3月18日-天明2年3月23日)
側室:鈴木弥藤次の娘(「実母」をお登勢の方として公表)
次男:奥平昌高[注釈 3](1781-1855) - 奥平昌男の婿養子