久永との間には、1962年(昭和37年)に禎久(後、カメラマン)を儲けている。
1963年(昭和38年)に週刊誌『女性自身』が実施した、「ベストドレッサーはだれか」というアンケート調査では、1位の淡路恵子に次ぐ2位であり、3位であった皇太子妃美智子を上回る評価と人気があった[17]。 1964年(昭和39年)4月29日、生存者叙勲再開により勲一等宝冠章受章。同時期に夫 久永の米国赴任に同行した[18]。5月1日に、夫妻がワシントンへ向かう際には、次兄の義宮正仁親王、叔父の三笠宮崇仁親王、次姉の鷹司孝子・平通夫妻、長姉の夫で元皇族の東久邇盛厚、伏見博明、姉の夫池田隆政、宮内庁長官の宇佐美毅、そして久永の母を含む、親族・友人約100人による盛大な見送りがあった[19]。 結婚後も、派手な言動に関し、批判を受けることもあった。例えば、1968年(昭和43年)に、知己であるヴァンヂャケット副社長石津裕介
降嫁後
1970年(昭和45年)に開催された大阪万博では、開会式・閉会式のテレビ番組で司会を務めるなど、タレントとしても活動した[22]。このことについて感想を問われた父天皇は、国民と皇室の距離が近づくことを好意的に捉えつつも、細部の感想については「研究しなければならない」と言葉を濁している[23]。
1975年(昭和50年)11月、夫 久永のシドニー駐在に同行し、渡豪[24]。二度目の海外居住となった。
2005年(平成17年)11月15日に姪の紀宮清子内親王(皇籍離脱後:黒田清子)の結婚の際、直近の内親王の“降嫁”の例として、また皇室出身らしからぬトークの歯切れのよさから複数のメディアに出演した。
2019年(令和元年)5月1日時点で、健在の昭和天皇の皇女(内親王)は姉の池田厚子と貴子のみである。民間企業(名誉職とは言えプリンスホテルの取締役)で勤務する島津貴子は「異色の皇女」と呼ばれる。 貴子は確認されているだけで2回、誘拐事件の対象となった(いずれも未遂)。 島津貴子父: 歴代天皇 歴代皇后 親王 内親王・女王 臣籍降下 妃
誘拐未遂事件
1963年(昭和38年)10月26日、貴子を誘拐し身代金5千万円を要求しようとした男が逮捕される「島津貴子誘拐未遂事件
1970年(昭和45年)夏、京浜安保共闘議長だった川島豪が横浜拘置所内から永田洋子らに手紙で貴子誘拐を指示していた[25]。永田は「反天皇というスローガンを、京浜安保共闘が掲げていない」ことを理由に、政治思想と合致しないと考えたため実行に移さなかった[25]。この件は、1981年(昭和56年)8月に判明した[25]。
逸話等
久永の父に当たる島津久範伯爵は、香淳皇后の母方の叔父である。
愛称の「おスタちゃん」は、清宮貴子(すがのみや たかこ)の称号と名前の最初の1文字をそれぞれ取ったものである。
1957年8月の軽井沢のテニスコートにおける明仁皇太子(当時)と正田美智子の出会いは、貴子が皇太子に大会に出場するよう勧めたのがそのきっかけの一つとなった[26]。
1959年に四国旅行した際に、高知県の貝類収集家黒原和男の貝類標本を見学した。ここで未記載種のカセンガイ類が見出され、清宮を記念して新種スガノミヤカセン Hirtomurex filiaregis(Kurohara, 1959) として記載された[27]。
若いころ、大江健三郎と対談したことがあり、大江『世界の若者たち』(新潮社、1962年)に収録されている。大江が「ぼくは天皇家にやつあたりしているでしょうか」と言うと、貴子は「たいへんなやつあたりよ、ウフ」と答えている。
栄典
1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[28]
1964年(昭和39年)4月29日 - 勲一等宝冠章
著書
島津久永・貴子共著『ある日幸せに』写真:中谷吉隆、有紀書房、1960年。
家族
父:昭和天皇
母:香淳皇后
祖父:大正天皇
祖母:貞明皇后
兄弟:東久邇成子 - 久宮祐子内親王 - 鷹司和子 - 池田厚子 - 第125代天皇・明仁 - 常陸宮正仁親王 - 島津貴子
甥姪:第126代天皇・徳仁 - 秋篠宮文仁親王 - 黒田清子
義父:島津久範(伯爵、島津忠麿の婿養子)
義母:島津久子(高倉永則子爵の次女)
夫:島津久永
子:
長男:禎久
系譜
昭和天皇祖父:
大正天皇曾祖父:
明治天皇
曾祖母:
柳原愛子
祖母:
貞明皇后曾祖父:
九条道孝
曾祖母:
野間幾子
母:
香淳皇后祖父:
邦彦王(久邇宮)曾祖父:
朝彦親王(久邇宮)
曾祖母:
泉萬喜子
祖母:
俔子曾祖父:
島津忠義
曾祖母:
山崎寿満子
大正天皇(明治天皇の子) 貞明皇后(大正天皇の妻)
昭和天皇(大正天皇の子) 香淳皇后(昭和天皇の妻) 秩父宮雍仁親王(大正天皇の子) 雍仁親王妃