島津継豊
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病気がちであり、強度の疝癪による目まいに悩まされ、享保21年(1736年)に江戸参勤した後帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなった[2]

元文2年(1737年3月、四弟の忠紀越前家を再興させた。延享元年(1744年5月、同じく七弟の忠卿に断絶した支族・和泉家の門跡を継がせて、再興させた。この家を「今代の和泉家」という意味で今和泉家という。

元文3年(1738年)に藩主が嗣子なくして死去したときに藩主を輩出する家格として一門家を新設した。当時、家格一所持だった同母弟の垂水島津家当主・島津貴儔や、次男の加治木島津家当主・島津久門(後の重年)をこの家格とする。

延享3年(1746年)11月、長男の宗信に家督を譲って隠居したが、その後藩主となった宗信と次男の重年が継豊に先立って死に、孫(重年の子)である島津重豪(初名は忠洪)が11歳で8代藩主となったため、自身も病弱の身を押し、その後見を行った。

寛延2年(1749年)に鹿児島に帰国した。宝暦10年(1760年9月、60歳で死去した。
系譜

父:
島津吉貴(1675-1747)

母:須磨 - 側室、名越恒渡(右膳)の妹

養母:福姫 - 松平定重

正室:皆姫 - 毛利吉元の娘

継室:浄岸院(1705-1772)、竹姫 - 徳川綱吉徳川吉宗の養女、清閑寺熈定の娘

女子:眞含院(1733-1808)、菊姫 - 黒田重政正室


側室:於嘉久 - 渋谷貫臣の娘

長男:島津宗信(1728-1749) - 薩摩藩六代藩主、浄岸院竹姫の養子

女子:鐘 - 肝付兼伯

女子:鉄 - 島津久隆(新城島津家)室

男子:入来院定勝(1736-1781) - 入来院定恒の養子


室:登免 - 島津久房の娘

次男:島津重年(1729-1755) - 島津久季加治木島津家)の養子、薩摩藩七代藩主


室:伊地知氏

三男:島津久峯(1732-1772) - 島津久豪知覧島津家)の養子

女子:就 - 夭亡


側室:四本為規の娘

女子:樺山久智室 - 渋谷貫臣の娘の養子


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 子孫にはお由羅騒動で遠島の憂き目にあった名越左源太がいる。
^ なお、(詳しい事情は不明だが)継豊の代からの歴代藩主は最後の藩主・茂久(忠義)が使用するまで通字の「久」や「貴」を避けるようになっている。

出典^ 村川浩平「松平氏下賜の授受具体像と基本的性格」『日本近世武家政権論』185 - 189頁[注釈 2]
^ 芳即正『島津重豪』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1980年)p.5-6










島津氏22代当主(1721年 - 1746年)
宗家

忠久????-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂
総州家

師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-???? | 久世????-1417 | 久林1417-1430 | 断絶
奥州家

氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在


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