島本須美
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運動が得意で、スポーツ大会などで学校代表になり、体操などで皆の前に立ち、模範演技をしたりしていた[8][11]。音楽なども得意だったが、勉強に関しては活発ではなく、あまり成績が良くなかったという[11]。中学では当初はバスケットボール部に入部していたが、腕を骨折してしまい、休んでいた間にバスケットボールへの熱が冷めてしまい、そのの時に声をかけらて体操部に所属し、新体操に励む[8][11]。一方で文学的なもの、演じることには興味を感じていなかったという[11]。高校卒業後は就職するつもりだったため、高知商業高校[2]に進学したが、体操部がなく演劇部へ入部[8][11]。部長を務め、演劇コンクールに参加し、審査員に誉めてもらったことが嬉しくなり、これをきっかけに俳優を目指す[12][13]

高校時代から各地方にもあった芝居を見るための団体の会員になり、俳優座文学座、青年座、劇団民芸と大手劇団の舞台を観も行っていた[12]。地方だったことから、演劇に対する予備知識がほとんどなく、観劇できる劇団以外は無知で観劇したそのプロの劇団に憧れ、「そしてそこに入りたい」という想いを馳せていたという[12]

俳優座を受験するため、上京して桐朋学園芸術短期大学演劇科へ進学[12][14]。短大時代の同期生に高畑淳子がいる[12]

「やりたいことはやりなさい」という家庭だったため、両親は「好きなことをやりなさい」と応援してくれたという[12][14]

当時は舞台女優になりたい思いでいっぱいで、テレビ、映画に出演したいという欲は全くなかったという[12]。短大時代はアルバイトもせずに学業に専念していたが、貧しかったことから「今週は20000円で暮らさなきゃ」というのはあった[14]。短大時代は、カリキュラムが詰まっており、次回までにやらなければいけない課題も多くて大変だったという[14]

その頃、上京するまでは無知だったアングラ演劇に夢中になり、大学卒業後はこちらの方向へと考えるようになり、既製の劇団ではやりたいことが見つけられなかったため、「自分たちで、劇団を作ろう」とも考えていた[15]

在学中に知り合えたプロの劇作家、プロの演出家に協力してもらい、結成を試みるが、延々と演劇論を戦わせているばかりであり、何も決められなかったため、そのプロの人物達が「お前たちは何をやっているんだ」と去られてしまい、劇団名も決まらず、1本の舞台も行わないまま終わっていたという[15]

その間、古典の人形劇をしていた団体の人物から誘いがあり、人形と生身の人間が対話するような舞台には出演していた[15]

職業としての声優は知っていたが、当時は舞台女優を目指していたことから仕事をすることになるとは思っていなかったという[16]。卒業後は大学時代に講師をしていた劇団青年座の演出の人物に青同劇団に誘ってもらい、劇団青年座に入団し[8]、劇団のオーディションを受けて、劇団員になる[16]
キャリア

青年座に入団してから一番最初に、初井言榮の付き人を経験[14]。初舞台は、PARCO劇場の舞台のヒロイン役[16]。活動初期は『花神』、『マー姉ちゃん』等のテレビドラマに出演していた。


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