1896年(明治29年)9月8日、東北学院の教師となって宮城県仙台市に1年間ほど赴任[4]。同年10月25日に母の死に直面し、当時住んでいた広瀬川を見下ろす崖上の支倉町の住居で詩作を始め、仙台駅近くの三浦屋に移って第一詩集『若菜集』を執筆、これを発表して文壇に登場した[4][5]。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠(仙台県仙台出身)と共に「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『落梅集』におさめられている一節「椰子の実」は、柳田國男から伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを貰ったもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、山田耕筰門下の大中寅二が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。同じく落梅集におさめられている「海辺の曲」はシューベルトの歌曲「白鳥の歌」第12曲に作詞したものであり、あわせて楽譜[注 2]が収録されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:小田進吾)、1925年(大正14年)に弘田龍太郎によって作曲された歌曲『千曲川旅情の歌』も同じ詩集からのものである。 島崎藤村は自作で様々に「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、 などの事情による。
小諸時代から小説へ小諸市立小諸義塾記念館
1899年(明治32年) 小諸義塾の英語教師として長野県北佐久郡小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。北海道函館区(現・函館市)出身の秦冬子と結婚し[6]、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯を見事に描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。『破戒』を執筆し始めたのもこの頃からであり[7]、同作の登場人物である市村代議士は、岩村田町(現在の佐久市岩村田)の立川雲平をモデルにしたとされる[8]。
1905年(明治38年) 小諸義塾を辞し上京。
1906年(明治39年) 「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃、栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。
1907年(明治40年)『文藝倶楽部』6月に「並木」を発表。孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。
1908年(明治41年)『春』を発表。
1910年(明治43年)には『家』を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。
1913年(大正2年)5月末、神戸港よりエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にフランスマルセイユ着、有島生馬の紹介でパリのポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。西洋美術史家の澤木四方吉と親交を深める。第一の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載、『桜の実の熟する時』の執筆を開始。下宿の世話した河上肇などと交流した。
第一次世界大戦の勃発により、1914年(大正3年)7月から11月まで画家の正宗得三郎とともにリモージュに疎開。第二の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載。
1916年(大正5年)7月、熱田丸にて英国ロンドンを経て神戸港に到着した。
1917年(大正6年) 慶應義塾大学部文学科講師となる。
1918年(大正7年) 『新生』を発表し、帰国後改めて持ち上がったこま子との関係を清算しようとした。このため、親類の差配により、こま子は台湾にいる伯父・秀雄(藤村の長兄)の元へ渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。
1927年(昭和2年) 「嵐」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始める。
1928年(昭和3年)11月3日 加藤静子と結婚する。
1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『夜明け前』が『中央公論』にて連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。
1940年(昭和15年) 帝国芸術院会員。
1941年(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣・東条英機が示達した「戦陣訓」の文案作成にも参画した。(戦陣訓の項参照)
1942年(昭和17年) 日本文学報国会名誉会員。
1943年(昭和18年) 『東方の門』の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。
親譲りの憂鬱
父親と長姉が、狂死した。
すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった。
後に姪の島崎こま子と近親相姦を起こしたが、こま子の父である次兄・広助の計らいによって隠蔽された。長兄・秀雄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた。
年譜
1872年3月25日(明治5年2月17日) - 筑摩県の馬籠村[注 1]に生まれる。
1878年(明治11年) - 神坂小学校に入学。
1881年(明治14年) - 兄とともに上京。泰明小学校に通う。
1886年(明治19年)
3月、泰明小学校を卒業。
11月、父・正樹、死去。
1887年(明治20年)9月 - 明治学院普通部本科に入学。
1888年(明治21年)6月 - 木村熊二から受洗。
1891年(明治24年)6月 - 明治学院を卒業。
1892年(明治25年)10月 - 明治女学校の教師となる。
1893年(明治26年)
1月、北村透谷、星野天知らと『文学界』を創刊する。
教え子の佐藤輔子を愛したため明治女学校を辞め、キリスト教を棄教する。
1894年(明治27年)
5月、透谷が自殺。
1895年(明治28年)
長兄が公文書偽造行使の疑いで下獄。
1896年(明治29年)
9月8日 - 東北学院(仙台市)の教師として約1年間赴任。