島原の乱
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島原の乱

島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担と、払えない場合に生きて火を付けられる等の苛烈な処罰に窮し、これに藩によるキリシタンカトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業漁業手工業商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。

島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルポルトガル船長の記録に残っている[5]。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。
天草

天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。

細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。

上述のように宗教弾圧以外の側面もあることからかは不明であるが、現在に至るまで反乱軍に参戦したキリシタンは殉教者と認定されないままである。
1630年と1637年のフィリピン侵略計画

1630年松倉重政ルソン島侵略幕府に申し出ていた。将軍徳川家光マニラへの日本軍の派遣を確約することは控えたが、重政にその可能性を調査し、軍備を整えることを許した。1630年12月14日、重政は長崎奉行竹中重義の協力を得て、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り、スペインの守備を探らせた[6]。彼らは商人に変装し、貿易の発展についての話し合いを口実としてルソン島に渡航した。それぞれ10人の足軽を従えていたが、嵐の中の帰路、木村の部下は10名とも死亡した[7]マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた[8][9]。重政は軍備として3,000の弓と火縄銃を集めたという[10]。この作戦は侵略指揮官である松倉重政の突然の死によって頓挫したが[11]日本によるフィリピン侵略1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[12]。その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。(Stephen Turnbull 2016, p. 8-9)

オランダ人1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[13]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。


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