きしだ しん
岸田 森
『婦人生活』1966年10月号より
本名岸田 森
別名義朱川 審(あけかわ しん)
生年月日 (1939-10-17) 1939年10月17日
没年月日 (1982-12-28) 1982年12月28日(43歳没)
出生地 日本 東京都杉並区
身長169 cm(1965年時点)[1]
血液型AB型
職業俳優・声優
ジャンル舞台・映画・テレビドラマ・吹き替え
活動期間1962年 - 1982年
活動内容
1962年:文学座入団
1966年:文学座退団
配偶者樹木希林(1964年 - 1968年)
著名な家族
岸田國士(伯父)
岸田衿子(従姉)
岸田今日子(従姉)
所属劇団文学座(1962年 - 1966年)
主な作品
映画
『斬る』
『座頭市と用心棒』
『呪いの館 血を吸う眼』
『歌麿 夢と知りせば』
『黒薔薇昇天』
『蘇える金狼』
テレビドラマ
『怪奇大作戦』
『天下堂々』
『斬り抜ける』
『帰ってきたウルトラマン』
『傷だらけの天使』
『太陽戦隊サンバルカン』
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岸田 森(きしだ しん[2][3]、(1939年〈昭和14年〉10月17日[2] - 1982年〈昭和57年〉12月28日[2])は、日本の俳優、声優、劇作家、演出家。 1939年(昭和14年)、東京市[2]杉並区阿佐ヶ谷(現・東京都杉並区阿佐谷北)にある河北総合病院で岸田国士の弟・岸田虎二とその妻・真理子の子として誕生する。5歳ごろまで中野区本町通りに住んでいた。 1944年(昭和19年)、5歳。疎開先の箱根町立湯本小学校へ入学。 1947年(昭和22年)、8歳。帰京し、千代田区の九段小学校へ転校する。九段小学校の同級生に大空真弓がいた。麹町中学校から海城高等学校を卒業。麹町中学校の同級生に衆議院議員の加藤紘一、海城高校の1年後輩にはフリーアナウンサーの徳光和夫がいた。 1958年(昭和33年)、19歳。一浪後法政大学英文科へ入学するが、2年生のときに俳優の道を志し、中退したという。 1960年(昭和35年)、21歳。文学座附属演劇研究所に研究生として入団[1]。研究発表会のような内輪の演劇ばかりで、「年間収入が2?3万円という暮らしが5?6年続いた」と語っている。 1962年(昭和37年)、23歳。『光明皇后』の延臣役が初舞台となる[1]。
来歴
同年の『氷点』(NET)が本格的なテレビ初出演と本人は語る[6]。
1968年(昭和43年)、29歳。悠木(樹木)と離婚後、バーのマダムと再婚するがのちに離婚。その後は女優・三田和代と事実婚関係にあった。『怪奇大作戦』(TBS)が、円谷プロとの初仕事となる。この作品への出演が自身の芝居の一大転機になったと語り、以後「僕は円谷育ち」と公言している[7]。
1971年(昭和46年)、32歳。東宝映画『呪いの館 血を吸う眼』(山本迪夫監督)で吸血鬼を演じ、和製ドラキュラとの評価を得る。この東宝『血を吸う』シリーズ[注釈 1]は代表作となった[出典 1][注釈 2]。『帰ってきたウルトラマン』では主人公の師で兄代わりでもある坂田健役を演じた。
1973年(昭和48年)、34歳。円谷プロのテレビ特撮『ファイヤーマン』(日本テレビ)に出演。脚本を手がけた第12話では、部分演出も行う。この年、天知茂主演のテレビ時代劇『無宿侍』(フジテレビ)第6話において兄弟役で共演。
1977年(昭和52年)、38歳。『歌麿 夢と知りせば』(太陽社)に主演。カンヌ映画祭でも上映され話題を集めた。生涯唯一のトップクレジットで遇された大作映画である。ほかに、主演作としてはほぼ出ずっぱりの『黒薔薇昇天
』[注釈 3]が、大役としては三船敏郎、勝新太郎の向こうを張る剣豪を演じた『座頭市と用心棒』があり、名バイプレイヤーとしてのフィルモグラフィのなかで異彩を放っている。1980年(昭和55年)、41歳。テレビCMの演出を手がける。「エスビー食品」など水谷豊の主演するCFについては、「演出補助」と肩書きされるが、本人は「あれはすべて僕が演出しました」とコメントしている。
1982年(昭和57年)12月28日、食道ガンのため、43歳で死去[2]。墓所は神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園。
葬儀の際に、岸田を弟のように可愛がっていた若山富三郎は弔辞のなかで「こんなことになるんだったら、お前を殴ってでも絶交してでも酒を辞めさせるべきだった」と後悔のコメントを残した[注釈 4]。公私にわたり親交の深かった俳優の睦五朗によれば、草野大悟は岸田を死に追いやった原因は彼とともに深酒をしていた自身にあると思い込み、葬儀の席で岸田の母に謝罪し、その後も朝まで泣き崩れていたという。睦は悲痛なその姿が頭から離れないと語っている[12]。葬儀では三田和代が遺影を持ち挨拶した。 血液型AB型。身長169センチメートル。 岡本喜八、実相寺昭雄、神代辰巳、西村潔、工藤栄一などの監督作品の常連で、萩原健一、水谷豊、松田優作ら岸田を慕った俳優は多かった。勝新太郎も岸田の才能と個性を高く評価し、多数の作品で共演。勝が主宰した俳優学校「勝アカデミー」の講師を務めた[注釈 5]。岸田今日子の評するところ「森ちゃんは教え好き」だったという。 実父は1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)まで、火星の土地分譲で名をはせた「日本宇宙旅行会(改称後・日本宇宙飛行協会)」の協会事務局長であったという。
人物