岸田森
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悠木、村松克己草野大悟らと劇団「六月劇場」を結成し、以降は主に映画・テレビに活躍の舞台を移す[5]

同年の『氷点』(NET)が本格的なテレビ初出演と本人は語る[6]

1968年(昭和43年)、29歳。悠木(樹木)と離婚後、バーのマダムと再婚するがのちに離婚。その後は女優・三田和代と事実婚関係にあった。『怪奇大作戦』(TBS)が、円谷プロとの初仕事となる。この作品への出演が自身の芝居の一大転機になったと語り、以後「僕は円谷育ち」と公言している[7]

1971年(昭和46年)、32歳。東宝映画『呪いの館 血を吸う眼』(山本迪夫監督)で吸血鬼を演じ、和製ドラキュラとの評価を得る。この東宝『血を吸う』シリーズ[注釈 1]は代表作となった[出典 1][注釈 2]。『帰ってきたウルトラマン』では主人公の師で兄代わりでもある坂田健役を演じた。

1973年(昭和48年)、34歳。円谷プロのテレビ特撮『ファイヤーマン』(日本テレビ)に出演。脚本を手がけた第12話では、部分演出も行う。この年、天知茂主演のテレビ時代劇無宿侍』(フジテレビ)第6話において兄弟役で共演。

1977年(昭和52年)、38歳。『歌麿 夢と知りせば』(太陽社)に主演。カンヌ映画祭でも上映され話題を集めた。生涯唯一のトップクレジットで遇された大作映画である。ほかに、主演作としてはほぼ出ずっぱりの『黒薔薇昇天』[注釈 3]が、大役としては三船敏郎、勝新太郎の向こうを張る剣豪を演じた『座頭市と用心棒』があり、名バイプレイヤーとしてのフィルモグラフィのなかで異彩を放っている。

1980年(昭和55年)、41歳。テレビCMの演出を手がける。「エスビー食品」など水谷豊の主演するCFについては、「演出補助」と肩書きされるが、本人は「あれはすべて僕が演出しました」とコメントしている。

1982年(昭和57年)12月28日食道ガンのため、43歳で死去[2]。墓所は神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園。

葬儀の際に、岸田を弟のように可愛がっていた若山富三郎は弔辞のなかで「こんなことになるんだったら、お前を殴ってでも絶交してでも酒を辞めさせるべきだった」と後悔のコメントを残した[注釈 4]。公私にわたり親交の深かった俳優の睦五朗によれば、草野大悟は岸田を死に追いやった原因は彼とともに深酒をしていた自身にあると思い込み、葬儀の席で岸田の母に謝罪し、その後も朝まで泣き崩れていたという。睦は悲痛なその姿が頭から離れないと語っている[12]。葬儀では三田和代が遺影を持ち挨拶した。
人物

血液型AB型。身長169センチメートル。

岡本喜八実相寺昭雄神代辰巳西村潔工藤栄一などの監督作品の常連で、萩原健一水谷豊松田優作ら岸田を慕った俳優は多かった。勝新太郎も岸田の才能と個性を高く評価し、多数の作品で共演。勝が主宰した俳優学校「勝アカデミー」の講師を務めた[注釈 5]。岸田今日子の評するところ「森ちゃんは教え好き」だったという。

実父は1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)まで、火星の土地分譲で名をはせた「日本宇宙旅行会(改称後・日本宇宙飛行協会)」の協会事務局長であったという。劇作家の岸田國士は伯父、女優の岸田今日子や童話作家の岸田衿子(國士の娘)は従姉に当たる。千代田区の麹町中学校に在籍していた当時、山形県から転校してきた(のちに政治家となる)加藤紘一とも友人であった。

六本木でバーを経営し、岸田が学生野球ファンということあり、映画評論家の田山力哉が連れ立って岡田彰布松本匡史など当時の東京六大学野球や、東都大学野球リーグ高木豊など各選手が時折店を訪れ、顔なじみであった。酒を愛し、自宅の洋酒コレクションには、客にせがまれたときのために、どれも半分以上の飲み残しがあったと、山本迪夫監督は『キネマ旬報』の追悼記事で人柄をしのんでいる[要文献特定詳細情報]。

無口で陰湿な役の多い岸田だが、プライベートではさびしがりやで、出演待ち時間にはやかましいくらいのおしゃべりであったという。愛称は「しんちゃん」や「かみそり・しん」。常連の監督たちもそうだが、勝新太郎、水谷豊、松田優作ら俳優仲間、先輩後輩の指名を受けての仕事も多く、演技力と人柄が慕われていた。

円谷プロでは「退屈だったのと、特撮に興味を持ったので、それでしかできないものを作ってみたくなったから」と、朱川 審(あけかわ しん)の名で脚本を発表[注釈 6]。『帰ってきたウルトラマン』第35話「残酷! 光怪獣プリズ魔」は、光をモチーフにしたという岸田のイメージを基にした怪獣「プリズ魔」の造型は、第2期ウルトラ怪獣随一の美しさと名高く、多くの関連本に登場する[注釈 7]。「朱川審」のペンネームの由来としては、「本名では照れくさいのと、生まれたときに名づけられる予定だった審という名を復活させてみた」とコメントしている。

ほかには実名で『ファイヤーマン』第12話「地球はロボットの墓場」の脚本を手がける[2]。岸田の演ずる水島隊員はこの回は全くセリフを話さず、その動作と口の微かな動きだけで感情や意思を表現するなど、実験的な演出がみられる。

映画では岡本喜八監督作品に多数出演。『斬る』での初出演から亡くなるまでの監督作品14本中12本に出演しているが、出ていない2本は『斬る』の時点で準備が進んでいた次作『肉弾』と、前後篇の後篇である『にっぽん三銃士・博多帯しめ一本どっこの巻』のみなので、まさに手放そうとしない気にいりようで、後期「喜八一家」のキーマン的存在であった。『ダイナマイトどんどん』(1978年、大映)のド派手なスーツをまとった敵方ヤクザ幹部役の抱腹絶倒演技、わずかな出番で作品の印象を一変させるような脇役を目指したい、と語っていたモットーを具現化したような『ブルークリスマス』(1978年、東宝)の不気味な政界黒幕秘書役などが代表的なものとして挙げられる。岸田の葬儀の際は、棺の先頭を担ぐ岡本の姿が報道された。『怪奇大作戦』以来の実相寺昭雄とは4本の劇場映画をともにしているが、『歌麿』の主役以外も準主役的な起用が多い。

また、時代劇においては多くの歴史上の人物を演じたが、そのなかでも感情を抑制し知的なイメージが先行した役柄を多く演じた。代表的なものに、『徳川家康』(1964年NET)での若き日の竹中半兵衛役(晩年期は原保美が代わって演じた)、大河ドラマ草燃える』(1979年NHK)では大江広元役のほか、荻生徂徠小栗上野介鳥居耀蔵など、知恵者の役柄を多く演じた。

血を吸う薔薇』(1974年、東宝)で共演した佐々木勝彦は、制作時に楽屋で岸田が髪の毛の薄さを気にしていたと語っている。岸田は同年制作の実相寺昭雄監督作品『あさき夢みし』(ATG)では、役作りで思い切って坊主頭にしていて、その際、普段はカツラを着用。この坊主頭を意図的に『傷だらけの天使』、『探偵物語』(日本テレビ)で活用している。

『傷だらけの天使』第5話において、加藤嘉演じる暴力団の組長に詫びを入れるよう強要されるシーンで、岸田は唐突にカツラを外し土下座した。このシーンについては従前より「演出によるものである」との説と「岸田のアドリブである」とする説があるが、萩原健一の著書『ショーケン』によると(第四章 p80-p81)、これはアドリブではなく映画での岸田の役作りを承知していた萩原らが編集と展開の都合から指を詰めるシーンの代わりとして現場で発案したもので、岸田自身は「(坊主頭は)映画の制作発表のときまで公表しない」と主張して承諾せず、萩原らの懇願に負けて撮影することになっても最後まで乗り気ではなかったとのことである。

怪盗103号役としてゲスト出演した『探偵物語』第13話では、終盤の松田優作とのフェンシングでの格闘シーンにおいて工藤(松田)の攻撃が103号の頭髪を直撃、カツラが取れて坊主頭(しかも頭には「103」と書かれている)をさらすシーンがある。ただし、こちらは岸田は撮影時には自毛を生やしており、坊主頭の方がカツラである。

特技監督の中野昭慶によれば、岸田はよく「宇宙人をやらせろ」と要望していたという[12]
趣味趣向

趣味は蝶の収集・採集、スコッチ・ウイスキー収集、油絵、シナリオ、ゴルフ、野球、植草甚一の影響によりジャズ鑑賞[注釈 8]。特技は剣道(3段)。

大の酒好きとして知られるが、飲んでも人格が変わるようなことはなかったとされる[15]


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