岸田今日子
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注釈^ 変わった少女だった、と自身回想している[要出典]。幼稚園にも行かず、空想に浸っていて、小学校では勉強についてゆけなかったと。小学5年生でも、割り算について「数が割れるなんて」と不思議でしょうがなかったと。
^ 『保毛尾田家の人々』、『われら定時制高校野球部』など。詳しくは、とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧を参照。
^ 後の雑誌のインタビューで、「私は母の死を境に“人に甘えること”をしなくなった」と語ったという[5]
^ さらに岸田は「私が女優をしたりものを書いたりしていることを“母が知ったら喜んでくれるだろうな”という思いが、いつも心の底にあるのです」とも述べたという[5]
^ 撮影現場では、演者が作品ごとの役名で呼ばれることは一般的とされる。
^ 岸田のある自著には、この時について「本番中に子役から呼ばれるのはいいけど、そうじゃない時に実子である娘以外の人から『お母さん』と呼ばれると、ザラザラの手で触られるような拒否反応が起こる」と記したという[5]
^ 価値観がズレるようになった、とも。
^ 娘に「お父さんとお母さんは仲が悪いの?」と訊かれて、「おしどり夫婦などと世間からは言われて、人様の前に出ているけれど、もうそうやって自分を偽ってゆくのは止めよう」と決意したという。
^ 『ムーミン』の仕事を請けたのはそのためだった、と後にトーク番組で語ってもいる[出典無効]。声を収録するスタジオには、毎回、娘を連れていって見せていた、という。
^ 國士は、岸田が文学座の研究生になる時に「舞台美術の仕事をしたい」と聞いていたため、女優になるとは思っていなかった。
^ つかから「頭悪いんじゃないの?」と言われたが、岸田は「稽古は、恥をかくためにある」と気にも留めなかった[5]
^ 岸田によると「例えば首に包帯を巻いているおばあちゃんの役を演じる場合、その包帯は風邪をひかないためのスカーフ代わりかもしれないし、もしかしたら包帯の下に実は傷が隠されているのかもしれないって想像するの。傷なら自分でつけたのか人がつけたのか、あるいはそのおばあちゃんは既に死んでいて実は幽霊なのかも…と色々と妄想することができる」と語っている[2]
^ 岸田の方が6歳年上で、20歳を過ぎてから文学座に入団した山崎は、岸田から“ヤマ”と呼ばれ、退団後も長年に渡り交流があった[5]
^ その理由について山崎は、「主役は最初からキャラクターがはっきりしていますが、脇役は十分に説明されていないことが多い。説明がないってことは、自分の考えで役柄の細かい所まで作ることができる。だから脇役の方が面白い役が多いのです」としている。
^ 冨士とは、1962年のテレビドラマ『鏡子の家』で親友役として出演して以来、親友に。吉行とは2度続けて清水邦夫の芝居に一緒に出た後、1984年暮れから1985年初にかけて一緒にインド旅行をして以来の仲。そのインド旅行は、案内人の山際素男が著した本『脳みそカレー味』に描かれている[要文献特定詳細情報]。
^ 2006年1月放送の第22作が遺作。
^ 2004年に収録され死後に放送された。
^ 書籍『東宝特撮映画全史』では、ナレーターと記述している[12]

出典^ a b c d e f g h i j k 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.36.
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “復刻超ロングインタビュー【女優・岸田今日子】魅惑の表現者に聞いた、仕事と妄想的恋愛論(1996年のインタビュー記事)”. 読む映画館 轟夕起夫NET (2020年12月3日). 2022年4月15日閲覧。
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