岸田今日子
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上記以外にも、1962年の映画『秋刀魚の味』や1974年のドラマ『傷だらけの天使』など数々の話題作に出演すると、「岸田は脇役でこそ、役者としての輝きを放つ」と評されるようになる[5]
多岐にわたる活躍

独特の声と情感豊かな読みにより、1969年のアニメ『ムーミン』に声優として出演。また、『ムーミン パペットアニメーション』では、ムーミンを含めた全てのキャラクターおよびナレーションまでを一人で演じ分けている。この仕事で世間の子供たちにその声が愛され、気品と温かみがある声により大人からも支持された[5]。以降ナレーターとしても他に得がたい存在として、ドキュメンタリーからバラエティまで幅広く起用された。2002年にはポップシンガーUAのシングル「DOROBON」で詩の朗読に参加。

著作も多く、エッセイから翻訳など幅広い分野で健筆を振るった。特に児童文学、童話については造詣が深く、所属する「演劇集団 円」では、毎年年末にシアターΧで上演される、幼児にも楽しめる舞台「円・こどもステージ」の企画も担当した。上記のような幅広い活動は、1950年代にデビューした女優としてはかなり珍しかった[5]

さらに1990年頃には、バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』内のドラマ仕立てのコント[注釈 2]にも出演し、当時の若年層にも高い知名度を誇るようになった[1]。一方、九条の会の他、「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」に参加するなど、護憲運動に関わったことでも知られる[6][7]
死去

2006年版『犬神家の一族』では1976年のオリジナル版で演じた琴の師匠役にキャスティングされていたが、岸田の体調不良により配役が変更された[2]

2006年12月17日午後3時33分、脳腫瘍による呼吸不全のため東京都内の病院で死去。76歳没。墓所は東京都府中市多磨町多磨霊園

同年1月のテレビ朝日放送の法医学教室の事件ファイル第22作が岸田の遺作となった。また、同年12月NHK-BS2にて放送された『ミス・マープルシリーズ』では、主人公ミス・マープルの吹き替えを担当した[8]が、放送と前後して他界したため、遺作となった。
後任・代役

岸田の没後、持ち役を引き継いだり、代役をした人物は以下の通り。

滝沢久美子 - 『刑事コロンボ ロンドンの傘』:リリアン・スタンホープ役(オナー・ブラックマン)※追加収録部分のみ。

草笛光子 - 『犬神家の一族』:琴の師匠役、『アガサ・クリスティー ミス・マープル』:ミス・マープル役。

エピソード
“母親”という存在

若い頃の母・秋子は出版社で翻訳の仕事をし、文学の道を志していたが父・國士との結婚により諦めた[5]。その後生まれた岸田は母に溺愛されて育ったが、12歳の頃に最愛の母を結核で亡くす[注釈 3]。その後女優として名が売れ、多方面で活躍するようになったが、以後も母の存在を意識し続けた[5]

1993年頃、とある人から「女優や執筆業をするのは劇作家である父の影響か?」と尋ねれると、本人は「むしろ母の影響が強いように思います」と答えている。続けて「母の若い頃の日記を見つけてから、その中の一節『どうぞ私の中にある芸術の蕾(つぼみ)が、大きくいきいきと開きますように』が、頭から離れなかった」としている[注釈 4]

1968年に私生活で岸田自身も母となったが、“母親”という存在に特別な感情を抱いていたことが影響し、映画やドラマでの母親役にはあまり関心がなかった。1976年のドラマ『歯止め』で母親役を演じた際、撮影現場でスタッフから「お母さん」と呼ばれた[注釈 5]ことに冷淡な態度を示した[注釈 6]
私生活

仲谷昇とは1954年に文学座で出会って以降同志となり、その後「劇団雲」や「演劇集団 円」でも行動を共にした[2]。また、演技だけでなく当時二枚目俳優としても評判の高かった仲谷と結婚。“新劇界のおしどり夫婦”と呼ばれた[2]。その後妊娠したが俳優という休めない仕事の影響もあり、一度流産を経験する。その後二度目の妊娠をすると、流産回避のため仕事を断る決意をし、1968年に長女を出産する。

仕事面では俳優として評判を得て忙しい日々を送る一方、私生活では次第に夫との仲がうまくいかなくなった[注釈 7]1978年に離婚。[注釈 8]後に娘との二人だけの生活が始まった。その娘に自分の仕事を理解してもらおうと[注釈 9]、アニメ『ムーミン』のムーミン・トロールの声を担当した。
舞台

1948年に舞台美術に興味を持ち、文学座研究所に入るが、2年後の卒業時に裏方志望を含めた全員参加のオーディションが開かれる。当時岸田は引っ込み思案だったが出演者として選ばれ、意図せず初舞台を踏むことになったが何とかやり遂げた。その後父親の反対[注釈 10]を押し切って1952年に正式に文学座の所属になり、四畳半一間のアパートでの貧乏生活を始めた[5]

文学座時代の1955年、日本演劇史の転換点である福田恆存演出、芥川比呂志主演『ハムレット』においては、ヒロインのオフィーリア役の候補となった。しかし、あまり若くして良い役に付けると周囲の嫉妬を買い、本人のためにもならないとして文学座創設者の岩田豊雄が反対し、幻となってしまった[9]。また、『サロメ』(1960年)の主演に抜擢された時は、三島由紀夫に「僕のイメージにあるサロメ役とぴったり」と言わしめた[2]

文学座脱退後、「劇団雲」の出演した舞台『聖女ジャンヌ・ダーク』(1963年)が芸術祭賞を受賞[2]。以後、シェイクスピアから日本の作家に至る幅広い意欲作に出演し、芸域を広げる[2]。ちなみに「演劇集団 円」に所属後、つかこうへいとの舞台のオーディションを兼ねた稽古で即興のセリフが上手く言えず、彼から罵倒されたことがある[注釈 11]。その後舞台に加えて映画でも多彩で卓越した演技を見せ、役者として円熟期を迎えた[2]
演技に関して

岸田は「芝居というものは妄想の賜物」と評し、与えられた役柄に自由にアプローチしていく面白さを感じたことが、晩年まで役者業を続ける理由となった[注釈 12]。本人は真面目な新劇女優と思われるのは本意ではなく、「面白いことなら何でもやりたい。観客から『何なのこの役者さん?』と言われ続けるのが本望」としていた[2]

また、文学座の後輩である山ア努[注釈 13]によると、「岸田さんとは役に対する考え方が似ていて、2人とも『一見すると説明の難しいミステリアスな役』が好きだった」とのこと[注釈 14]。演じる難しさはあったが岸田は役作りの苦労を周りには全く見せず、自然体で作品に臨んでいたという[5]


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