1957年4月29日、日本を出国。同年5月、シャンピと結婚した[13][1][注 2]。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。1967年に渡仏[14]、以降はパリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた[1]。この頃に、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、ジャン・コクトーらと親交を持つ。
1958年11月下旬から12月にかけて、岸、久我、有馬の三人が共演する『風花』の撮影が長野市で行われた[15]。撮影はしばしば悪天候に見舞われ、待ち時間の間、駐日ドイツ大使館付き武官が書いたゾルゲ事件の本に読みふけった。岸の頭にひらめくものがあった。「リヒャルト・ゾルゲは、ファシズムと戦い、自分なりの思想と手法で世界を良くしようと夢想した革命児だったのではないか」。そこから関連資料をむさぼり読み、映画の企画をたてた[16]。シャンピが監督し、岸が出演した『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』は1961年に公開された。
1963年、1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した。
1972年には映画『約束』で萩原健一と共演[17]。萩原とは『雨のアムステルダム』(1975年)でも共演した。
1975年、イヴ・シャンピと離婚[1][注 3]。娘の親権は岸が持った。同年、パリ在住の役でテレビドラマ『赤い疑惑』に特別出演。1983年には「ペントハウス」誌の創刊号で、後ろ姿のヌードを披露した。
2000年、娘や2人の孫息子と暮らしたフランスを離れ日本に戻り、横浜の実家で一人暮らしを始めた。同年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の8位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優7位となっている[18]。
2013年3月、自らの恋愛経験を基にオマージュした熟年男女の恋愛小説『わりなき恋』を発表。2014年、小説『わりなき恋』を原作とした一人舞台『わりなき恋』に主演。脚本も自ら書いた。 1957年、25歳のとき、フランス人の映画監督で医師でもある11歳年上のイヴ・シャンピと結婚し、パリへ移住した[20]。 当時はまだ日本人が海外旅行をすることが出来ない時代であり、フランスへ移住する日本人は非常に珍しかった。夫・イヴの母が世界的なバイオリニストだった影響により、「女性は手を大事にしなければならない」という理由で夫から料理をするのを禁じられ、ノイローゼになってしまった。 1975年、41歳のとき離婚、娘は11歳だった[20]。以後今日まで独身。自宅はパリの最高級住宅街として有名なサン・ルイ島にあった。築400年の家で一人暮らしをしていた。男の子の孫が2人おり、娘や孫たちとときどき会っている。 離婚後に日本に帰国を希望したが、1984年(昭和59年)5月25日の国籍法改正で父母両系血統主義になるまで日本国籍は父系優先血統主義であり、娘が日本国籍を取得できず娘の結婚までパリ在住を決意した。2018年には娘について戸籍の記述欄に記載することを申請したが出生直後に日本領事館に出生届を出さなかったことで不可能であった[21]。 一人娘のデルフィーヌがパリ在住のオーストラリア人の作曲家ウォーレン・エリス
ギャラリー
役者とプロ野球選手のトップ同士の交流 若かりし頃の西井香春の姿も見える
1954年に久我美子(左)、有馬稲子(中央)とともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した。
1954年
1954年 (木村伊兵衛撮影)
1955年2月5日に開かれた『亡命記』のロケ隊歓送パーティー。出演者の岸と佐田啓二と、二人を見送る久我美子と有馬稲子[19]。
『サンケイグラフ』1955年1月30日号表紙
1957年5月、岸はフランスの映画監督のイヴ・シャンピと結婚した。
岸と娘のデルフィーヌ・麻衣子。パリにて(1965年)。
人物
遠縁に前田美波里がいる(前田美波里の母のいとこが岸恵子の母方のいとこの妻の弟)[23]。また、冨士眞奈美も遠縁にあたる(冨士眞奈美の母方の叔母の夫が岸恵子の母方のいとこの妻の弟)[23]。
エピソード
岸はデヴィッド・リーン監督から何度か出演依頼を受けており、「もし人生に後悔があるとしたら、デヴィッド・リーン監督の名作映画『戦場にかける橋』に出演し損ねたこと」だと語り、断ったのは唯一の後悔だと振り返る。リーンは岸のために役を用意して、主演のウィリアム・ホールデンも岸に出演するよう、来日して説得に訪れたという[24]。
萩原健一と『約束』(1972年)と『雨のアムステルダム』(1975年)で共演した。一部メディアは恋愛関係にあると報じたが、萩原は自著で、「お姉さん」と呼んで慕っていた通り友人関係であると述べている[25]。萩原は岸の母も慕っていた。1980年代初頭までは萩原が岸の家に遊びに来ていたが、その後は1990年前後にロビーで偶然再会したぐらいだという。ただし岸の母が亡くなった2000年前後に、萩原健一は葬儀に駆け付けてくれたという。
1961年の日仏映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』の企画を手掛け、1972年のテルアビブ空港乱射事件を題材にした映画制作にも取り掛かっていた(のちに中止)ことなど、元々ジャーナリスティックなテーマに興味があることを綴っている[26]。