岩野泡鳴
正宗白鳥は泡鳴を評して「子供に対してほとんど愛情らしいものを感じないのは、日本の作家のうち類例を絶している」と述べ[3]、徳田秋声も子供を不幸な運命にしている例として、島村抱月、島崎藤村、田山花袋とともに泡鳴の名を挙げている[4]。
女性遍歴
最初の妻・竹腰幸子(1870年 - 1936年11月5日[5])
東京生まれの3歳年上で、横浜で小学校教師をしていた[3]。1895年に結婚後まもなく結核を患い、同じく胸に不調のある泡鳴と療養を兼ねて転居を繰り返すが、不仲となり1912年に離婚[2]。子に、長女・喜代子(夭折)、次女・富美子、長男・諭鶴(夭折)、次男・薫、三男・真雄、四男・貞雄(夭折)[2]。
芸者・吉弥
戯曲を書くため日光の温泉に滞在中、痴情に耽る(『耽溺』)。
愛人・増田しも江
泡鳴を樺太や北海道まで追う。心中し損なったあと、分かれる(『毒薬を飲む女』)。
二番目の妻・遠藤清子(1882年 - 1920年)
青鞜社同人の婦人解放運動家[6]。元久留里藩士の父親が維新後漢学の私塾を開いたが失敗したため、府立第一高等女学校を中退、東京府教員伝習所を出て教師となり、電報通信社や大阪日報の記者となった[7]。妻子持ちの同僚との恋愛に悩んで1909年に自殺未遂を起こし、その年の暮れに別居中の泡鳴と同棲。1913年泡鳴と結婚し、翌年に長男・民雄(泡鳴の五男)を出産するも、泡鳴と蒲原房枝(英枝)との姦通事件により別居、離婚を巡って法廷闘争となり、1915年に『愛の争闘』を刊行、1917年離婚。その後、花屋を経営、10歳年下の画学生・遠藤達之助(1892年 - 1977年、のち小畠辰之助)と再婚して夫の実家の京都に転居し長女を出産、胆石により38歳で没[2][7][6]。
三番目の妻・蒲原房枝(英枝)
青鞜社員で、泡鳴の口述筆記者。清子との離婚が成立する前の1916年に泡鳴との間に長女・美喜(泡鳴の三女)を出産、1918年には長男・諭鶴(泡鳴の六男)を生み、入籍[2]。前夫との間に一子があったが、前夫が家を出たため離婚、教員をして自活していた[8]。
最期の愛人・荒木郁子(郁)(1888年 - 1943年2月26日[9])
青鞜社員。泡鳴の弟子で、愛人とも。泡鳴の五男・民雄を清子の没後に引き取るが、民雄は関東大震災(1923年)で行方不明となる[10]。
作品一覧
小説・詩
魂迷月中刃 悲劇 一名・桂吾良/ 阿波寺鳴門左衛門 女学雑誌社 1894
露じも 私家 1901
悲恋悲歌 日高有倫堂 1905
海堡技師 冥想詩劇 金尾文淵堂 1905
泡鳴詩集 金尾文淵堂 1906
闇の盃盤 日高有倫堂 1907
耽溺 易風社 1910 のち新潮社「代表的名作選集」、岩波文庫、角川文庫
放浪 泡鳴五部作 東雲堂 1910
毒薬を飲む女 ⇒[1] 泡鳴五部作、「耽溺・毒薬を飲む女」講談社文芸文庫 2003
炭屋の船 岡村盛花堂 1913
五人の女 春陽社 1913
ぼんち 植竹書院 1913
征服被征服 春陽堂 1919
非凡人 天佑社 1919
猫八 玄文社 1919
斷橋 泡鳴五部作 新潮社 1919.9 のち岩波文庫
情か無情か 日本評論社 1920
家付女房 天佑社 1920
燃える襦袢 日本評論社出版部 1920
発展 泡鳴五部作 新潮社 1920
憑き物 泡鳴五部作 新潮社 1920
女の執着 日本評論社出版部 1920
公爵の気まぐれ 学芸書院 1920
泡鳴全集 全18巻 国民図書 1921-1922
岩野泡鳴選集 第1・2巻 三興書林 1948
泡鳴五部作 新潮文庫(上下) 1955、復刊1994
岩野泡鳴全集 全16巻別 臨川書店 1994‐1997
評論
神秘的半獣主義 左久良書房 1906
新体詩の作法 修文館 1907 (作文叢書)
新自然主義 日高有倫堂 1908 日本図書センター 1990 (近代文芸評論叢書)
近代思想と実生活 東亜堂書房 1913
男女と貞操問題 僕の別居事実と自由恋愛論 新潮社 1915
近代生活の解剖 広文堂書店 1915
悲痛の哲理 隆文館図書 1920
刹那哲學の建設 隆文館 1920.10
翻訳
表象派の文学運動 アサ・シモンズ 新潮社 1913
脚注[脚注の使い方]^ a b 岩野泡鳴 いわのほうめいコトバンク
^ a b c d e f g h i j k l m n 石田三雄、「明治の群像・断片[その8] ハーンは、いつヘルンになったのか」『近代日本の創造史』 2012年 13巻 p.19-31, doi:10.11349/rcmcjs.13.19, 近代日本の創造史懇話会
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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