岩手軽便鉄道
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残りの区間の建設工事もかなり進捗していたが、8月27日[6]に集中豪雨で完成した線路などが流失する被害を受けて、以後は部分開業を徐々に繰り返すことになった。これにより終点側での区間開業を行っており、一時期西線と東線で分離して運行していた。1914年(大正3年)4月16日[8][6]に土沢 - 晴山間3.2kmが延伸開通した。続いて1914年(大正3年)4月18日[9][6]にもっとも終点側の遠野 - 仙人峠間19.3kmが東線として開通した。ただし早瀬川第一橋梁完成まで仮橋経由で運行したため貨物営業のみで、旅客営業を開始したのは同年5月19日[10][6]となっている。さらに同年12月15日[11][6]、西線の晴山 - 岩根橋間5.8kmと東線の鱒沢(後に貨物駅の中鱒沢駅[12]となり国有化時に廃止) - 遠野間10.6kmが同時に延伸開業し、1915年(大正4年)7月30日[13][6]に東線の柏木平 - 鱒沢間4.2kmが延伸した。同年11月23日[14][6]、最後の岩根橋 - 柏木平間9.5kmが開通して、花巻 - 仙人峠間65.3kmが全通した。宮守トンネル (322m)、鱒沢トンネル (302m) の2箇所が難工事であったため、この区間が最後となった。

こうして花巻から仙人峠までが762mm軌間の軽便鉄道で結ばれた。また仙人峠駅から直線距離で4kmほどのところにある大橋までは釜石から既に1911年(明治44年)11月3日に釜石鉱山鉄道が開通していた。これにより、中間の徒歩連絡をはさみながらも花巻から釜石までの鉄道連絡ができるようになった。しかし標高560mの仙人峠駅と標高254mの大橋駅の間の標高差は大きく、さらに間に標高887mの仙人峠があることから、この間を直接鉄道で結ぶことができなかった。

代わりに岩手軽便鉄道では、この間を結ぶ貨物用の索道(ロープウェイ)を建設、1914年(大正3年)4月5日[6]開通させた。これは仙人峠まで鉄道が開通する13日前である。索道は玉村工務所製の単線循環式のもので、全長3.6km、ワイヤー径23mm、支柱30本、搬器約70個で、当初は仙人峠駅構内に設置した70馬力発動機で駆動しており、仙人峠から大橋へは100t、大橋から仙人峠へは40tの輸送能力があった。1923年(大正12年)8月に傍系の盛岡電気工業(後の東北配電(東北電力))が釜石方面への電力事業を開始したのに合わせて電動機駆動に更新されている。この索道では貨物・郵便物・新聞などが輸送された。

一方旅客は、仙人峠を歩いて越えていた。仙人峠駅からは峠まで2.1kmを上がり、そこから九十九折の急坂を大橋駅まで3.4kmの、あわせて2時間半から3時間かかる道のりであった。また個人営業の駕籠の便もあったが、花巻 - 仙人峠間の特等運賃1円71銭よりも高い2円50銭を徴収していたとの記録がある。さらに駕篭かきの客に対する態度が悪く、悪評が新聞で叩かれるなどしたが、この区間の鉄道連絡が完成するまで駕籠の運営は続けられた。

仙人峠 - 大橋間を結ぶ鉄道を建設する動きは1920年代頃から見られるようになった。時の内閣総理大臣は岩手県出身の原敬であったが、同じ岩手県の山田線の建設には積極的に取り組んだことに対して、政治的な理由で仙人峠の鉄道に関しては冷淡な態度を取った。この頃、会社は国鉄に依頼して建設ルートの試算を行っている。それによれば、足ヶ瀬 - 仙人峠間の花巻起点39マイル58チェーン地点に金山駅を設置して分岐し、仙人峠の下をトンネルでくぐって東側でループ線を設置し、北進してスイッチバック式の甲子駅を設置してその先で大きく南へカーブを描き、釜石鉱山鉄道に沿って南東へ向かい、唄貝駅で釜石鉱山鉄道へ合流する7マイル24チェーンの路線が検討されている。軌間1,067mm、最急勾配40パーミル、電気動力の前提で、建設費300万円と試算された。しかしこの額は、岩手軽便鉄道には到底出せるものではなかった。

1925年(大正14年)に岩手軽便鉄道の取締役であった瀬川弥右衛門貴族院議員に選ばれ、仙人峠の連絡鉄道の国鉄による建設を請願するだけではなく、岩手軽便鉄道全体の国有化の運動も始められた。加えて、当時当社を率いた金田一国士(勝定の養子)は、金田一財閥の拡張策で逼迫した資金を国による買収金で好転させるため、国有化に向けた政界工作を活発化させた[15]。これらの結果、1927年(昭和2年)第52回帝国議会で鉄道敷設法別表に花巻 - 遠野 - 釜石間の鉄道が追加されて予定線となり、さらに1929年(昭和4年)第56回帝国議会で建設線へ昇格した。続いて1936年(昭和11年)3代目社長の三鬼鑑太郎が買収論を掲げて代議士に当選し、第69回帝国議会で岩手軽便鉄道の国有化が決定され、169万5425円で買収されて同年8月1日に国鉄釜石線となった。仙人峠の索道もまた国鉄の経営するところとなった。これは国鉄史上唯一の索道線[注 2]である。

国有化後は第二次世界大戦中の中断をはさみながら762mm軌間の1,067mm軌間への改軌が進められ、さらに仙人峠[注 3]を越える鉄道の建設が行われて[注 4]、1950年(昭和25年)10月10日に花巻 - 釜石間が全通している。
年表路線図(1925年)

1911年(明治44年)

6月13日 免許申請

7月5日 免許交付[2]

10月12日 会社設立[3]


1912年(大正元年)

8月1日 仙人峠索道仙人峠 - 大橋間3.6km免許取得

9月 路線建設工事着工


1913年(大正2年)

8月27日 集中豪雨により敷設済み線路などが流失

10月25日 花巻 - 土沢間12.7km開通、花巻駅・矢沢停留場・幸田停留場・土沢駅開設[7]

12月25日 似内停留場開設[16]


1914年(大正3年)

4月5日 仙人峠索道仙人峠 - 大橋間3.6km開通

4月6日 幸田停留場が幸田停車場へ昇格

4月16日 土沢 - 晴山間3.2km開通、晴山駅開設[8]

4月18日 遠野 - 仙人峠間19.3km開通、貨物営業のみ、遠野駅・上郷駅・足ヶ瀬給水所・仙人峠駅開設[9]

5月16日 日ノ出臨時停留場開設

5月19日 遠野 - 仙人峠間旅客営業開始[10]

10月14日 青笹臨時停留場開設

10月25日 足ヶ瀬給水所が足ヶ瀬信号所へ変更

10月26日 青笹臨時停留場廃止

12月15日 晴山 - 岩根橋間5.8km、鱒沢 - 遠野間10.6km開通、岩根橋駅・鱒沢駅・二日町停留場・綾織駅開設[11]


1915年(大正4年)

4月10日 鳥谷ヶ崎停留場開設[17]

5月1日 赤川停留場開設[18]

7月30日 柏木平 - 鱒沢間4.2km開通、宇洞駅・柏木平駅開設[13]

8月21日 淵ノ欠臨時停留場開設

9月1日 青笹停留場開設[19](1914年の臨時停留場とは場所が異なる)

11月23日 岩根橋 - 柏木平9.5km開通、花巻 - 仙人峠間全通、宮守駅・平倉停留場開設、幸田を小山田へ改称[14]、足ヶ瀬信号所を足ヶ瀬停車場へ昇格


1916年(大正5年)

2月10日 上郷を岩手上郷へ改称[20]

2月25日 二日町停留場が二日町停車場へ昇格

5月18日 日ノ出臨時停留場廃止


1917年(大正6年)6月15日 赤川停留場休止

1921年(大正10年)3月11日 鳥谷ヶ崎停留場移転

1923年(大正12年)8月 索道の発動機を電動機に更新

1924年(大正13年)

8月29日 淵ノ欠臨時停留場休止

12月16日 荒谷前駅開設、宇洞を鱒沢へ改称[12]

、二日町を岩手二日町へ改称[21]

1925年(大正14年)2月20日 淵ノ欠臨時停留場廃止

1926年(大正15年)8月15日 関口停留場開設[22]

1927年(昭和2年)12月13日 赤川停留場廃止

1927年(昭和2年) 花巻 - 遠野 - 釜石間が鉄道敷設法の予定線となる

1928年(昭和3年)6月1日 中鱒沢駅廃止

1929年(昭和4年) 花巻 - 遠野 - 釜石間が建設線へ昇格

1930年(昭和5年)7月16日 中鱒沢駅開設(1928年廃止の駅とは場所が異なる)、貨物駅

1936年(昭和11年)

3月25日 平倉停留場が平倉停車場へ昇格


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