岩崎弥太郎
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当時土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、貿易商人ウォルシュ兄弟武器商人グラバークニフラー商会とも取引をしている。これら欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材並びに強心剤防腐剤として使用されていた樟脳鰹節など藩物産を販売しており、吉田東洋の甥の後藤象二郎が弥太郎に主任を命じた[7]慶応2年(1866年)春に起こった土佐藩物産の樟脳の市場価格暴騰により、土佐藩がクニフラー商会との間で契約不履行が生じた際には弥太郎が窓口となったが、この問題の決着は明治維新後まで長期を要した[8]司馬遼太郎は「竜馬がゆく」でこの時の土佐藩後藤象二郎クニフラー商会(文中ではキネプル)とのもめごとを取り上げている。また明治維新後、グラバーは三菱に雇われる事となった[7][9]慶応3年(1867年)になると、吉田東洋門下の福岡藤次に同行を求められ長崎へ行く[7]坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中海援隊として土佐藩の外郭機関となっていたが、慶応4年閏4月には解散し、弥太郎は藩命を受け同隊の残務整理を担当した。その後弥太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、明治元年(1868年)、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る[10]
九十九商会

明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社[11]、後の九十九(つくも)商会を立ち上げた[12]。代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した[12]。明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励した[12]。私腹を肥やしていると疑われ派遣された内偵の石川七財を勧誘し、商会に入れた[12]。明治4年(1871年)の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となった[13]。九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江土佐稲荷神社付近)を買い戻した[13]。岩崎弥太郎は当地に本邸を構え事業を営み、三菱の発祥の地となる。邸宅跡は現在石碑が建てられている。明治期当時、外国船は日本の国内航路にまで進出しており、明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えたが太刀打ち出来ず、また三井、鴻池、小野組などに設立させた日本国郵便蒸汽船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与え、運航助成金も支給したがはかばかしくなかったのに対して、九十九商会は高知?神戸航路、東京?大阪間の輸送で上潮だった[13]
三菱商会岩崎弥太郎(1870年代頃)

明治5年、九十九商会は三川(みつかわ)商会となったが、代表は川田小一郎石川七財、中川亀之助で弥太郎の権限は曖昧不分明である[14]

明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更した[13]。この時、土佐藩主山内家三つ柏紋を元にして(後に岩崎家の三階菱紋の家紋の意味合いを持たせる)現在、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。[15]

土佐山内家が用いていた「土佐柏」

岩崎家が用いていた「重ね三階菱」

また岡山県の吉岡銅山を入手した(現在の三菱マテリアル)[16]

弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
台湾出兵

明治7年、台湾出兵で政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否され、日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れたため躊躇したため、三菱が引き受けた[17]。政府は外国船13隻を購入し運航を三菱に委託した[17]。明治8年、日本国郵便蒸汽船会社は解散に追い込まれた[17]


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