1947年10月、雑用係(東横映画京都撮影所製作部製作課事務員)からキャリアをスタートさせたが[出典 26]、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められた[出典 27]。製作進行係として最初に担当したマキノ雅弘監督の『金色夜叉』(1948年)の撮影のとき、エキストラのトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという[出典 28]。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事[34]。翌1948年4月、24歳で製作主任に昇格[出典 29]。小さな会社で出世も早かった[44]。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と鎮魂の思いを込めて戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意[出典 30]。山本薩夫監督で映画化しようと東宝が動いていたが、岡田が先に映画化権を買った[出典 31]。東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり[出典 32]、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした[出典 33]。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった[40]。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、黒川社長への直訴が実り[70]、マキノの助け舟もあって、自ら陣頭指揮を執って1950年、映画は完成[71]。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て当時では最高の大ヒット[出典 34]、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが[出典 35]、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった[66]。本作品での岡田のクレジットは「製作担当」であるが、これが岡田の実質的な初プロデュース作[出典 36]。1948年、京都撮影所(以下、京撮)に従業員組合(労組)が創立され書記長。翌1949年、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任[75]。
課長昇進 - 撮影所長へ