小学三、四年生の頃、働き詰めに働く母が内職(縫製)の規模を拡大させて有限会社岡田刺繍を設立すると、父が教師を辞めて社長に就任した[10]。
大阪市立三稜中学校へ進学。中学では友人から機材を借りて自主短編映画を撮影し、学校の行事などで上映していた。この頃の岡田はSF作家になることを夢見る少年であったが、知識とアイデアは大量に出てくるが、それを創作物という形にするのは全く別の才能だということを悟る。映画・特撮・アニメーション・模型・空想科学の流行に没頭。浜村淳のラジオ番組『ヒットでヒット バチョンといこう!』の「もし地球の自転が停止したら」という投稿コーナーで「地球の自転が停止したとしても、エネルギー保存則まで消えてしまうわけではない。行き場をなくした膨大な運動エネルギーは瞬時にして熱エネルギーに変換され、あっというまに地球は灼熱の惑星となって生物は絶滅する」と投稿し、これが浜村に絶賛された[11]。
1974年(昭和49年)、大阪府立今宮高等学校へ進学する。事業の成功により家が新築され、コップの水が凍る程強力な業務用エアコンが設置された45畳の部屋が岡田の自室として宛がわれ、20歳までの3年間で蔵書が1万7千冊以上となる[12]。テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を観て衝撃を受け、父親を説得して当時30万円するビデオテープレコーダ「Uマチック」を買ってもらった[13]。当時60分で14,000円したビデオテープは1本しかなく[注 2]、何度も再生して暗記しては上書き録画した。1977年(昭和52年)、同校を卒業するも、大学受験に失敗し、夕陽丘予備校に通い始める[6]。
1978年(昭和53年)、コンピュータを学ぶために大阪電気通信大学に入学する[14]ものの、当時発足していた「SF&アニメーション研究会」へ入部し、学業以外の打ち込める場所をここに得て没頭し始める。のちに大阪芸術大学の講義で本人が語ったところによれば、一年生の時に履修届を丸々忘れてしまい、以降4年間は大学へ行くふりをしながら両親には仕送りを続けてもらい、籍を置いたままファン活動にのめり込んでいる。同年、映画『スター・ウォーズ』が日本で公開されると熱烈なファンになった。幼少時から家業の縫製技術を見て育った岡田青年は、どういうわけか「大魔神」の衣装を自作して扮装し、梅田の映画館「OS劇場」に出向いて初公開を待ちわびる人々の行列に並ぶも、全身黒づくめの巨漢に不安を感じたと思われるイベント会社の社員に入館を拒まれて小競り合いになる。後日語ったところによれば、ダース・ベイダーなど同映画のキャラクターではなく何の関係も無い大魔神のコスプレをして行ったことに対して、当時OS劇場でアルバイトをしていた竹内義和に「なんで大魔神やねん!?」と怒られたという。
ある日家に立ち寄ってみると3階建てであったはずの実家が4階建てへと増築されており、最上階の1フロアが丸々「巨大な神殿」に変わっていた。父親からは「今日からお母ちゃん(神道系の)神さんやで」と告げられて驚愕する[15]。訊けば、かねてより会社の収益が税金として徴収される理不尽さに嘆いていた母が税金対策として新興宗教を立ち上げ、実母自らが教祖となっていた[15]。家庭から出てゆくお金を少しでも減らそうとしたにも拘わらず、宗教法人としての必要経費の方が零細企業である有限会社岡田刺繍のそれに比べて大きすぎ、結局は素直に税金を納めていたほうがマシというのが実態であった[15][16]。
1981年(昭和56年)、大阪電気通信大学へ履修届を出し忘れたため放校処分となる[5][6]。 1978年(昭和53年)、大阪電気通信大学も参加して発足していた関西学生SF研究会連盟の会合に顔をだすようになる。ここで武田康廣と出会う。同年、第17回日本SF大会 (ASHINOCON) に参加し、武田康廣と共に舞台で話芸を披露。「関西芸人」の異名を取る[17]。 1979年(昭和54年)、関西学生SF研究会連盟が大阪で主催した第4回SFショーの事務局長を務める[18]。
同人時代