岡本喜八
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鳥取県米子市四日市町出身[1][2]

1941年、米子商蚕学校(現・米子南高校)卒業[1]後、上京。1943年明治大学専門部商科卒業後、東宝に入社し助監督となる[1]。しかし、1944年に太平洋戦争の戦局の悪化に伴い召集され、1945年1月に松戸の陸軍工兵学校に入隊[1]。愛知県豊橋市にあった第一陸軍予備士官学校で終戦を迎えた[1]。この豊橋滞在時に空襲で多くの戦友たちの死を目の当たりにし、戦争や陸海軍部に対する大きな憤りを抱いた。

復員後に東宝へ復帰し、マキノ雅弘谷口千吉成瀬巳喜男本多猪四郎らに師事して修行を積む[1]1957年に東宝が、映画の素人である石原慎太郎に、自作『若い獣』を監督させると発表したことに助監督たちが反発。シナリオ選考で一人監督に昇進させることが決まり、岡本が『独立愚連隊』『ああ爆弾』のシナリオで認められて昇進した。1958年、『結婚のすべて』で初メガホンを取る[1]。岡本のオリジナルシナリオによる、日中戦争最中の中国大陸に西部劇や推理劇の要素を取り入れた5作目『独立愚連隊』(1959年)で、一躍若手監督の有望格として注目を浴び、以降、『独立愚連隊西へ』(1960年)、『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、『ああ爆弾』(1964年)、『』(1965年)、『日本のいちばん長い日』(1967年[3]、『肉弾』(1968年)などの作品を監督。このうち『日本のいちばん長い日』では三船敏郎黒沢年雄らが好演。テレビで複数回放映された。また『肉弾』は岡本と同年代の戦中派の心境をシニカルな視点で描いた作品として高い評価を得て、キネマ旬報ベストテン2位となり、岡本自身も好きな作品として挙げている。

東宝退社後の1970年代後半には、『姿三四郎』(1977年)では時代との感覚のズレを感じさせたが『ダイナマイトどんどん』(1978年)は人気作となった。80年代以後は作品に恵まれなかったが、『ジャズ大名』(1986年)などを監督。『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991年)は、持ち味の一つである娯楽色をさらに前面に押し出した作品となり、日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞した。

アニメ映画『ガッチャマン』(1978年)の総指揮を担当しているが、実際は名前を貸しただけで、作業には一回も関わっていないと言われる。これは、監督だった鳥海永行が岡本のファンで、会いたいがために話が進んだのではないかと鳥海の弟子だった押井守が語っている[4]

1989年紫綬褒章を受章[5]

1995年、『EAST MEETS WEST』で初のアメリカロケ中に言語障害を起こし、硬膜下血腫と診断される。その後も軽い脳梗塞などを起こし、言語が不明瞭であった。『助太刀屋助六』(2002年)では主演の真田広之が伝令など補佐役を務めたり舞台挨拶などでも傍につき、会場の反応などを伝えていた。ただし、インタビューや講演などではかなり古い作品についても答えており、制作意欲も依然旺盛であった。『助太刀屋助六』の舞台挨拶では、張りのあるヨーイ、スタートの声を披露した。

2005年2月19日食道がんのため神奈川県川崎市多摩区の自宅で死去した。


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