岡山県立岡山朝日高等学校
1880年(明治13年)6月23日 - 津山中学校が廃止され、岡山中学校へ統合。
1881年(明治14年)11月 - 修業年限を予科1年、本科4年とする。
1883年(明治16年)6月 - 教則を改正し、初等中学科8級(4ヶ年)・高等中学科4級(2ヶ年)とする。
1884年(明治17年)
この年 - 円形の帽子を作製され、2本のペン先を交叉させた図柄の徽章が使用される。
9月15日 - 西教場が新築完成。
1885年(明治18年)
3月2日 - 岡山県達甲18号により岡山師範学校と合併し、「岡山学校中学科」と改称。
8月6日 - 明治天皇が来校。
1886年(明治19年)
8月18日 - 学校令により、師範学校と分離し、「岡山県尋常中学校」(修業年限5ヶ年)と改称。
11月25日 - 生徒総集会を開き、尚志会(校友会・現在で言う生徒会)の規則を議定し、幹事を選出。
11月26日 - 中学校と師範学校の教員が別々に任命され、この日をもって両校が完全に分離。
1887年(明治20年)
4月 - 尚志会が制服・制帽・帽章(桜の花弁の絵を背景に「中」の文字を置いたデザイン)を制定。
10月 - 生徒監督規則が設けられ、各級に級監(現在の担任)と組長を設置。競漕会を京橋下で開催し、これが尚志会水上運動会として継承される。
1888年(明治21年)2月 - 明治天皇・皇后の御真影が下賜される。
1890年(明治23年)
この年 - 服制を改定し、フック懸けのジャケットを採用。
5月30日 -「尚志会雑誌」(生徒会誌)を創刊。(1894年(明治27年)に発行停止の処分を受ける。)
1891年(明治24年)1月17日 - 教育勅語の謄本が下賜される。
1892年(明治25年)4月 - 岡山尋常中学校の卒業生に限り、優等の者は第三高等中学校(京都大学の前身)本科への編入が認められる。
1893年(明治26年)10月14日 - 台風による洪水の被害が甚大で、11月20日までの5週間休校を余儀なくされる。
1895年(明治28年)
2月28日 - 尚志会が「烏城」を創刊。
4月1日 - 津山中学校・高梁中学校の新設に伴い、「岡山県岡山尋常中学校」と改称。(岡山県告示第42号による)
1896年(明治29年)
4月27日 - 文部大臣の西園寺公望が来校・視察。
6月 - 入学時期を従来の9月から6月に変更。
11月13日 - 岡山市内山下3番地(烏城城郭内)に新校舎が完成。
11月21日 - 新校舎の落成式を挙行。
1897年(明治30年)
4月 - 新学期の開始月を6月から4月に変更。
夏 - 寄宿舎が完成。
1899年(明治32年)4月1日 - 「岡山県岡山中学校」と改称し(「尋常」が除かれる)、修業年限1ヶ年の補習科を設置。
1900年(明治33年)4月 - 徽章の意匠をほぼ現今と同じものに変更。
1901年(明治34年)
5月2日 - 「岡山県立岡山中学校」と改称(県の後に「立」が加えられる)。
5月19日 - 学則を改正し、新校舎落成式を行った1895年(明治29年)の日付にちなみ11月21日を紀念日(創立記念日)に制定。
1903年(明治36年)
4月4日 - 岡山・津山・高梁・矢掛の中学校4校で協同選抜を開始(1913年(大正2年)まで)。
4月 - 制服を改正。上着には金釦7個が付され、襟元に青条(あおすじ)を纏う長いジャケットを採用。
10月19日 - 皇太子が来校。以降この日を東宮行啓記念日としボートレース等を開催。
1905年(明治38年)4月 - 制服の生地をラシャ服地から小倉地に改め、上衣の丈を長くした。
1909年(明治42年)11月21日 - 校長によって校旗が寄贈される。校訓を制定。
1914年(大正3年)- 2階建て教室等を建築。
1915年(大正4年)10月26日 - 大正天皇の御真影を奉戴。
1916年(大正5年)
1月11日 -「自彊会」が発足。
11月21日 - 新武道場が完成。
1920年(大正9年)4月- 「岡山県岡山中学校」と改称(再)。
1921年(大正10年)3月11日 - 岡山県第二岡山中学校の新設に伴い、「岡山県第一岡山中学校」と改称(岡山県告示153号による)[1]。
1924年(大正13年)11月21日 - 創立50周年を記念し、新校歌を制定。
1925年(大正14年)
4月 - 配属将校の制度により、高橋少佐が赴任。
この年 - 50周年記念館「憲章館」が完成。
1927年(昭和2年)6月- 寄宿舎を廃止。
1928年(昭和3年)3月 - 天皇・皇后の御真影を奉戴。
1934年(昭和9年)9月21日 - 室戸台風による被害が甚だしく、授業不能となり、臨時休校とする。
1935年(昭和10年)10月 - 作業科教室などが完成。
1941年(昭和16年)
1学期 - 尚志会を尚志報国団に改組。
2学期 - 尚志報国隊を編成。
1942年(昭和17年)3月 - 岡山県立岡山夜間中学が併設される。
1943年(昭和18年)
4月 - 併設の岡山県立岡山夜間中学が岡山県烏城中学校に改称。
4月15日 - 補習科を卒業生指導講習会と改称して継続。
1944年(昭和19年)
3月21日 - 24日まで3日をかけて入学考査を実施。なお学区制のもとで岡山第二中学校との綜合考査。
5月16日 - 5年生が学徒動員の第一陣として、品川白煉瓦株式会社に出動。
7月1日 - 4年生が倉敷工業株式会社万寿航空機製作所に出動。
10月7日 - 3年生も倉敷工業株式会社万寿航空機製作所に出動。
1945年(昭和20年)
3月30日 - 中等学校の修業年限が5ヶ年から4ヶ年に短縮され、5年生と4年生が同時に卒業。卒業後も動員は継続。
6月29日 - 岡山大空襲により、烏城とともに校舎が焼失。
7月30日 - 3年生が早島にあった万寿航空機製作所第三工場に出動。
8月23日 - 終戦に伴い、万寿航空機製作所で退所式が行われ、学徒動員が終了する。
9月 - 校舎焼け跡、吉備津神社、倉敷紡績の青年学校の校舎を借用し、授業を再開。
10月23日 - 進駐軍が到着。
11月 - 伊島国民学校(現・岡山市立伊島小学校)校舎を借用し、3・4年生の授業を開始。また岡山市公会堂を借用し1・2・5年生を収容。
12月 - 補習科を復活。
1946年(昭和21年)
4月 - 再び修業年限が5ヶ年となる。
11月1日 - 仮校舎が完成し、2?5年生を収容。
1947年(昭和22年)
4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)により新制中学校を併設(以下・併設中学校)し、旧制中学1・2年修了者を、併設中学校(新制)の2・3年生として収容。
旧制中学校の募集は停止された。また併設中学校でも新たに生徒募集は行われなかった(暫定的な措置であったため)。
併設の岡山県烏城中学校は廃止の上、新制高等学校「岡山県立烏城高等学校」(夜間課程(定時制夜間部)・修業年限4ヶ年・男女共学)として発足。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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