岡山県立岡山操山中学校・高等学校
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中学校コード330211[1]
所在地703-8573
岡山県岡山市中区浜412番地
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岡山県立岡山操山中学校・高等学校(おかやまけんりつ おかやまそうざんちゅうがっこう・こうとうがっこう, Okayama Prefectural Okayama Sozan Junior and Senior High School)は、岡山県岡山市中区浜にある公立中学校高等学校。通称は「操山(そうざん)」。岡山五校の一つ。
概要
歴史
1900年明治33年)創立の「岡山県高等女学校」と1921年大正10年)創立の「岡山県第二岡山中学校」を前身とする。2002年平成14年)に岡山県立の高等学校としては初めて併設型中高一貫教育を開始した。2019年(令和元年)に創立120周年を迎えた。
設置課程・学科(高等学校)


全日制課程 普通科

通信制課程 普通科 - NHK学園高等学校の協力校となっている。

補習科 - 大学浪人生を対象としている。

校風


和して流れず

松柏の精神

校章
の葉の絵を組み合わせたものとなっている。
校歌
作詞は岡山操山高等学校、作曲は金光武義による。歌詞は3番まであり、3番の冒頭に校名の「操の山」が登場する。
中高一貫教育
毎年行われる文化祭などの行事は中高合同で実施される。2008年(平成20年)度に初めて中高一貫生が卒業し、毎年30人前後の旧帝大医学部医学科進学者を輩出している。また、特徴ある取り組みとして、中学校では「レクチャー・クリエイト」という2つの項目があり、学年が上がるにつれて選択科目授業数も増加していく。高校では、中高一貫教育の利点を生かした「操山システム」と題した教育計画を策定し、英語数学などの科目において生徒の習熟度や目標とする大学のレベルにあわせた「速修」・「標準」のクラスを設けているほか、大学研究機関との連携を図る授業を展開している。
沿革
高等女学校・新制高等学校(女子校)時代


1900年(明治33年)

2月10日 - 岡山県高等女学校の設立が認可される。

4月1日 - 「岡山県高等女学校」が岡山市磨屋町岡山寺・光珍寺内に開校。校地415坪を借用。


1901年(明治34年) - 「岡山県立高等女学校」へ改称[2](県の後に「立」が加えられる)。

1902年(明治35年)

1月17日 -「岡山県立岡山高等女学校」に改称。

3月28日 - 大供に完成した新校舎へ移転。

4月1日 - 岡山女子師範学校を併置。


1911年(明治44年)3月23日 - 岡山女子師範学校が西中山下へ分離。

1920年大正9年)4月1日 -「岡山県岡山高等女学校」と改称。

1921年(大正10年)4月1日 - 修業年限を4ヶ年から5ヶ年に延長される。

1923年(大正12年)4月1日 - 高等科(3年制)を付設。

1929年昭和4年)4月 - 研究部を設置。

1932年(昭和7年)3月31日 - 高等科の修業年限を2年制とする。

1936年(昭和11年)4月1日 - 第二高等女学校[3]の新設に伴い、「岡山県第一岡山高等女学校」と改称。

1939年(昭和14年)3月13日 - 浜に完成した新校舎へ移転。

1944年(昭和19年)3月 - 研究部の募集を停止。

1945年(昭和20年)6月29日 - 岡山大空襲により、校舎の60%を焼失。

1947年(昭和22年)

3月15日 - 復興工事一期工事が完成。

4月1日

高等科の募集を停止し、専攻科(3年制:文科・理科・家庭科)を付設。

学制改革(六・三制の実施)により、新制中学校を併設(以下・併設中学校)し、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。

高等女学校の募集を停止。暫定的に設置された併設中学校も新たに募集は行わず、在校生は2・3年生だけであった。




1948年(昭和23年)

2月1日 - 通信教育部を付設。

4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により高等女学校は廃止され、新制高等学校「岡山県立岡山第一女子高等学校」が発足。

高等女学校卒業生(希望者)を新制高校2・3年生として編入。併設中学校卒業生を新制高校1年生として収容。

併設中学校は継承され、在校生は3年生(1946年(昭和21年)高等女学校入学生)のみとなる。


11月30日 - 音楽堂が完成。


1949年(昭和24年)

3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、併設中学校が廃止される。

4月1日 - 専攻科の修業年限を2年制とする。


旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代


1920年(大正9年)12月25日 - 岡山県第二岡山中学校の設立が認可される。

1921年(大正10年)4月11日 - 岡山市丸之内の岡山県第一岡山中学校内に「岡山県第二岡山中学校」が開校。

1922年(大正11年)

3月15日 - 網浜に新校舎(本館)が完成。

4月25日 - 校舎・寄宿舎などが完成。


1944年(昭和19年)3月 - 第一岡山中学校と総合選抜入試を実施。(1945年(昭和20年)までの2年間)

1945年(昭和20年)6月29日 - 岡山大空襲により校舎が全焼し、分散授業を余儀なくされる。

1946年(昭和21年)

8月 - 焼け跡に仮校舎が完成。

9月 - 仮校舎に全生徒が復帰。


1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)により、新制中学校を併設(以下・併設中学校)し、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。

旧制中学校の募集を停止。暫定的に設置された併設中学校も新たに募集は行わず、在校生は2・3年生だけであった。


1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、旧制中学校は廃止され、新制高等学校「岡山県立岡山第二高等学校」(男子校)が発足。

旧制中学校卒業生(希望者)を新制高校3年生として、4年修了者を新制高校2年生として編入。併設中学校卒業生を新制高校1年生として収容。

併設中学校は継承され、在校生は3年生(1946年(昭和21年)旧制中学校入学生)のみとなる。


1949年(昭和24年)3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、併設中学校が廃止される。

新制高等学校(男女共学)


1949年(昭和24年)

8月31日 - 高校三原則に基づく岡山県内公立高校再編により、以上の新制高等学校2校が統合され「岡山県立岡山操山高等学校」(現校名)が発足。

通信教育部・専攻科を継承。

当面の間、旧女子校を「宇野校舎」、旧男子校を「東山校舎」と称して旧両校の校舎を使用。

この時点では校舎で男子と女子が分かれていたため、完全な男女共学ではなかった。


10月1日 - 開校式を挙行。


1950年(昭和25年)4月1日

全日制課程 2学科(普通科・家庭科)を有する総合制高等学校として発足。専攻科は家庭科・文学科の2学科を設置。本格的な男女共学を実施。

学区は岡山学区に属し、岡山県立岡山朝日高等学校総合選抜入試を実施。


1953年(昭和28年)4月1日 - 全日制課程のうち家庭科、専攻科のうち文学科の募集を停止。

1956年(昭和31年)10月10日 - 東山校舎を廃止し、宇野校舎に統合。4号館東半部が完成。

1957年(昭和32年)10月1日 - 現3・4号館西半部が完成。

1960年(昭和35年)9月21日 - 講堂体育館が完成。

1961年(昭和36年)4月1日 - 学校教育法の改正により、通信教育部を通信制課程と改称。

1968年(昭和43年)

7月2日 - プールが完成。


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