8世紀には、国府が垂井町府中に置かれた。国分寺は大垣市青野町に国分尼寺は垂井町平尾に其々建てられた。一宮は南宮大社(現:垂井町宮代)となった。 中世に入ると、美濃国は土岐氏が、飛騨国は京極氏が守護を務める。戦国時代になると、美濃国は斎藤道三や織田信長の活躍の舞台となる。飛騨国は姉小路氏が支配し、その後羽柴秀吉に従った金森氏が支配した。 徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦い(1600年)が関ケ原町、垂井町、大垣市の西濃地域で天下分け目の合戦が行われた。 江戸時代に入ると、先の関ヶ原の戦いによる論功行賞などにより藩の改易・転封などを含めながらも、美濃国は依然として戦略的に重要な地であり石高も多いことから幕府によりいくつかの小藩に分割された。幕府領としては笠松陣屋の美濃郡代が支配した。 美濃国内藩としては、最大でも大垣藩の10万石の他、苗木藩、岩村藩、郡上藩、高富藩、加納藩、大垣新田藩や尾張藩附家老の竹腰氏の今尾藩、尾張藩分家の高須藩が成立する。美濃国外藩としては尾張藩の12万石のほか、磐城平藩、備中岡田藩が領地を有した。 また、旗本知行地としては明知遠山氏や交代寄合の竹中氏陣屋など複数あった。飛騨国は当初飛騨高山藩があったが、元禄期に山林資源や鉱山資源に目をつけた幕府が藩主の金森氏を上山藩に転封し、その後は幕府領として高山陣屋の飛騨郡代が支配した。 また、律令時代から整備された東山道を元として、戦国時代に各地の戦国大名によって整備された道を繋ぎ、中山道が整備された。 当初の県庁は笠松陣屋。(この時点では美濃国のみ) 県令は長谷部佳恕連(元福井藩)、権参事は小崎利準(元亀山藩)。その後県庁舎が手狭になり、今泉村(岐阜市)八寺地内に新庁舎を建設。1874年(明治7年)6月21日に移転。
中世
近世
近・現代
1872年1月2日(明治4年11月22日)笠松県(1868年成立)と廃藩置県(1871年旧暦7月)でできた今尾県、岩村県、大垣県、加納県、郡上県、高富県、苗木県、野村県、及び、名古屋県、犬山県、岡田県の飛び地が合併して岐阜県となる。
1876年(明治9年)8月21日筑摩県のうち、吉城郡、大野郡および益田郡の三郡を合併して飛騨国を含むほぼ現在の形となる。新政府は府県の統廃合に当たり、旧石高で60万石以上になるよう調整したので、美濃と飛騨の合併が実現した。
1883年(明治16年)11月1日下石津郡が三重県桑名郡金廻村・油島新田・江内村を編入する。
1887年(明治20年)7月12日海西郡が愛知県海西郡松山中島村を編入する。
1889年(明治22年)7月1日市制町村制施行。
1891年(明治24年)10月28日本巣郡根尾村(現・本巣市)を震源としたM8.0の濃尾地震が起こり、大きな被害を受ける。
1912年(大正元年)9月22日暴風雨により、県内で死者114人、全壊家屋6,122戸、半壊家屋3,197戸の大惨事となった[8][出典無効]。
1918年(大正7年)1月 飛騨地方に豪雪(大正7年豪雪
1955年(昭和30年)4月1日「岐阜県民の歌」制定。
1955年(昭和30年)4月1日恵那郡三濃村の大部分が愛知県東加茂郡旭村に編入。
1958年(昭和33年)10月15日郡上郡白鳥町が福井県大野郡石徹白村の大部分を編入。
1958年(昭和33年)10月15日中津川市が長野県西筑摩郡神坂村の一部を編入。
1959年(昭和34年)9月26日伊勢湾台風が上陸。美濃地方を中心に被害を受ける。
1965年(昭和40年)9月 - 10月岐阜県で夏季および秋季国民体育大会(岐阜国体)が開催。
1965年(昭和40年)10月岐阜県で第1回全国身体障害者スポーツ大会が開催。
1966年(昭和41年)2月11日県庁舎が岐阜市薮田南に完成。岐阜市司町から移転。
1969年(昭和44年)9月19日郡上郡奥明方村(現・郡上市)を震源としたM6.6の岐阜県中部地震が発生、被害を受ける。
1971年(昭和46年)7月27日鹿児島県と姉妹県になる。
1976年(昭和51年)9月12日台風の影響による大雨で安八郡安八町で長良川の堤防が決壊するなど、9.12水害が起こり、大きな被害を受ける。
1988年(昭和63年)6月21日中華人民共和国の江西省と友好提携締結。
1988年(昭和63年)7月8日 - 9月18日岐阜市でぎふ中部未来博覧会が開催。
1995年(平成7年)4月26日 - 6月4日 可児市で花フェスタ'95ぎふが開催。
1996年(平成8年)4月1日県庁所在地である岐阜市が中核市に指定。