岐阜城
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1564年(永禄7年)3月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。

1567年(永禄10年) - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
岐阜城図(円徳寺蔵)。江戸時代に想像で描かれたと考えられている図。天下布武の印



同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。


1576年天正4年) - 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。

1582年(天正10年)6月21日 - 信忠が本能寺の変で倒れると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握し、美濃瑞龍寺崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げた。しかし、明智光秀羽柴秀吉に敗れると7月9日頃、不破郡長松に出向き織田信孝らに服した。

同年7月16日 - 清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。

1583年1月13日 - 羽柴秀吉、丹羽長秀池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。


同年(天正11年)6月6日 - 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。その後、信孝は切腹させられた。

同年5月 - 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。


1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死。

1585年(天正13年)恒興の次男・池田輝政の居城となる。

1591年(天正19年) - 転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。

1592年文禄元年) - 10月14日に豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となる。

1600年慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城岐阜城の戦い)。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する(のち1605年(慶長10年)に死亡した)。

1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。既に幾度も落城した上に戦術の変化(鉄砲、兵数の増加)に伴う大規模な改修が難しい山城は敬遠され、平城の加納城が新規に築城された。
岐阜城の復興天守岐阜城資料館
近現代

1910年明治43年)5月15日 - 模擬天守が再建、落成。これは長良橋(初代)の廃材を活用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により建てられたもので、木造亜鉛トタン)葺きのもの(3層3階、高さ15.15m)であった。この際、石垣を一回り小さく積み直してしまった為、天守の古い石垣は石そのものは昔の物だが、形状は留めていない。

1943年昭和18年)2月17日 - 早朝に失火のため模擬天守が焼失。展示してあった織田信長の遺髪なども焼失した[4]。なお建築から34年経ち、老朽化のため建替えの話も出始めていたという。

1955年(昭和30年)6月8日 - 第1回岐阜城再建期成同盟会を開催。同年8月から建設は市民、財界の浄財によるとの原則で必要な費用2,000万円の募金が行われ、約4ヶ月間で1,800万円が集められる。

1956年(昭和31年)7月25日 - 鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての模擬天守が落成。天守閣の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日本土木が施工した。なお建築にあたり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が行われた為、礎石等の遺構は失われたものとみられる。ただし、建てられた天守は、設計された物とは大きく違う。

1975年(昭和50年)4月 - 隅櫓(岐阜城資料館)が完成。建設は創業30年を迎えた川島紡績(社長、川島精市 現カワボウ株式会社)の全額寄付(総額6,000万円)によるもので、彦根城を参考に設計された。

1984年(昭和59年)11月 - 信長居館跡の発掘調査を行い、土塁・石垣などが発見され陶磁器や刀なども出土する。2000年以降も周辺の発掘と説明会が行われている。

1997年平成9年)2月 - 平成の大改修開始。
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