直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏である。 山鹿素行?山鹿政実
弘前藩(嫡流)
津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が登用されている。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となる。素行から6代後の子孫に山鹿流兵学者として活躍した山鹿素水が出ている。
素行の嫡男・政実に学んだ津軽政?は赤穂事件の直後に、真っ先に政実はじめ家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる(休んで粥ばかり食べていたとするのは芝居などの創作)。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている[29]。
山鹿素行=喜多村宗則[30]?喜多村政方?喜多村久通?喜多村久敬?喜多村親守?喜多村久武?喜多村久隆?喜多村久盛?喜多村久孝[31] 山鹿素行?山鹿高基
また、津軽藩士の喜多村宗則に素行の娘が嫁ぎ、宗則もまた津軽姓を許されて津軽政広と名乗り江戸家老となるが、若くして死去した。政広の遺児は素行の娘である母の手により山鹿流兵学や儒学を教育され、長じて津軽藩家老・喜多村政方(津軽正方、山鹿校尉とも)となる。政方の次男が国学者や画家として名高い建部綾足である[32][33]。建部氏は吉良義央の遠縁にあたる[32]。
平戸藩
素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、庶子の山鹿万助(高基)が平戸藩に仕えた(平戸山鹿氏)[36]
山鹿平馬(義行)?山鹿貞行
?山鹿義甫?山鹿一学?山鹿亀三郎?山鹿平馬(初代の襲名)?山鹿平馬?山鹿伊織立春(たつはる)の あさくみそむる 山鹿派(やまがは)の[42] ながれは四方(よも)の 海にみちけり 芝居の山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」(越後流の働事太鼓)[43]が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である。芝居で大石は(タンバリンのような)「ダンダラの中に黒右二つ巴(赤穂大石氏家紋)」が描かれた薄い平太鼓を叩いているが、大将が自ら家祖の紋を撥にて叩くのは尾籠である[44]。浅野長矩は太鼓や琴が大嫌いである[45]。 押太鼓というのは、戦場で自軍への合図のため等に用いるため、川中島絵巻や屏風など(山鹿流では「車懸りは敵方の備え立て三段四段なるに用ふれば功大なり」と記す)に描かれている「長胴太鼓」で非常に大きい。芝居のように一人の人間が左手だけでぶら下げて持てるものではない。また、山鹿流では大将は指図はするが、自分で太鼓を叩くのではない(「旗本や諸手の可作法の事」)[46]。
創作・巷説と考察