山鹿素行
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「士たるものは人倫の道を実践し、農・工・商の模範と成り、三民を教化していかねばならぬ」(『武教小学』教戒)

「自身の高名誉の儀之有りと雖も、公儀御為に対し然るべからざる儀は、許容致すべからざる事」と己の名誉を賭けて衝動的な行為に走ることを戒め、自己抑制し法度を守れる武士が士道に適うとしている。(『武教全書』巻四)

「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」「例ひ君たりとも道に則って自身を制御できぬ者、君にあらず」(同、巻五』)

「武は不祥の器なり。国家人民のことにかからざれば用いるべからず。天下国家を思わず、我一人我が家のみの為に使う兵、民これにより死して国滅ぶ」(『孫氏諺義』第十四)

「吝嗇は罪悪である。賢人たるものは出し渋るより、多く人に与えるのが宜しい。士が財物を与えなければ来るもの無し。縁なき眇たる矮人が来るのみ」(『武教小学』与授)

「女色にふけるは誠を失する邪悪なり。之を貪り之を淫するに至るは、情の過溢流蕩にして以て天下古今に及ぼすべからず。女色多きは精神を病み、礼を無くし争いを生む。大きな戒めとすべし」(『武教小学』色欲)

「君が無道にして、天子命じて罰せられなんは、仇を報ゆるの義あるべからず」(『山鹿語類』巻十四・仕法)

「我が家のことばかり思うは、人の顔をしてるといえど獣に似たり」(『武教小学』器物)

「殉死は不義なり。その無道なる風俗を改め、生きることにて発展する人徳を得るが天道なり。殉死をとげることで一時の快楽と陶酔をえる、何と嘆かわしき事ではないか」(『山鹿語類』巻十三・臣職)

子孫

直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏である。
弘前藩(嫡流)

 山鹿素行?山鹿政実[27]?山鹿高豊?山鹿高直?山鹿高美?山鹿高備?山鹿高補(素水)?山鹿高幸?山鹿高敏?山鹿高朗[28]

津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が登用されている。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となる。素行から6代後の子孫に山鹿流兵学者として活躍した山鹿素水が出ている。

素行の嫡男・政実に学んだ津軽政?は赤穂事件の直後に、真っ先に政実はじめ家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる(休んでばかり食べていたとするのは芝居などの創作)。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている[29]

 山鹿素行=喜多村宗則[30]?喜多村政方?喜多村久通?喜多村久敬?喜多村親守?喜多村久武?喜多村久隆?喜多村久盛?喜多村久孝[31]

また、津軽藩士の喜多村宗則に素行の娘が嫁ぎ、宗則もまた津軽姓を許されて津軽政広と名乗り江戸家老となるが、若くして死去した。政広の遺児は素行の娘である母の手により山鹿流兵学や儒学を教育され、長じて津軽藩家老・喜多村政方(津軽正方、山鹿校尉とも)となる。政方の次男が国学者や画家として名高い建部綾足である[32][33]。建部氏は吉良義央の遠縁にあたる[32]

平戸藩

 山鹿素行?山鹿高基?山鹿高道?山鹿高賀=山鹿高忠[34]?山鹿高元?山鹿高満?山鹿高明=山鹿高招[35]?山鹿高通

素行が平戸藩松浦鎮信と親しかった縁で、庶子の山鹿万助(高基)が平戸藩に仕えた(平戸山鹿氏)[36]

 山鹿平馬(義行)?山鹿貞行?山鹿義甫?山鹿一学?山鹿亀三郎?山鹿平馬(初代の襲名)?山鹿平馬?山鹿伊織

弟の山鹿平馬(義昌)も松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。

上杉家の千坂高房が山鹿流の達人であり、赤穂浪士と頭脳戦を展開する創作があるが[37]、千坂も松浦重信も赤穂事件との関わりはない。ただ、『山鹿語類』には上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事が記されている[38]。平戸藩の記録は歌舞伎の創作とは逆に吉良方寄りになっている。

平戸山鹿氏および松浦家は、山鹿素行の『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とある[39]を論拠として「大石の輩[40]は公儀の免許も得ず、徒党を組み火事と偽り闇討ちにて押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙である」と元禄赤穂事件を批判している。山鹿光世もこれに倣う[41]

素行の和歌

延宝8年正月7日、庶子・万介(のちの山鹿高基)に講義した際に詠んだ歌。初句を「初春(はつはる)の」としているものもある。

立春(たつはる)の あさくみそむる 山鹿派(やまがは)の[42] ながれは四方(よも)の 海にみちけり
創作・巷説と考察

芝居の山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」(越後流の働事太鼓)[43]が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である。芝居で大石は(タンバリンのような)「ダンダラの中に黒右二つ巴(赤穂大石氏家紋)」が描かれた薄い平太鼓を叩いているが、大将が自ら家祖の紋を撥にて叩くのは尾籠である[44]。浅野長矩は太鼓や琴が大嫌いである[45]

押太鼓というのは、戦場で自軍への合図のため等に用いるため、川中島絵巻や屏風など(山鹿流では「車懸りは敵方の備え立て三段四段なるに用ふれば功大なり」と記す)に描かれている「長胴太鼓」で非常に大きい。芝居のように一人の人間が左手だけでぶら下げて持てるものではない。また、山鹿流では大将は指図はするが、自分で太鼓を叩くのではない(「旗本や諸手の可作法の事」)[46]


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