山陰放送
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リモコンキーIDはキー局のTBSテレビと同じ「6」[1]

コールサインは、ラテ共通でJOHF(-DTV)(AM:900kHz / 5kW、DTV:45ch / 1kW。ラジオのコールサインは他3通り)であるが、後述の理由で、ラジオの親局は米子本社送信所、テレビの親局は松江本社送信所と、同じコールサインで別の送信所名を名乗る国内唯一の兼営局でもある。
概要

筆頭株主が長らく朝日新聞社毎日新聞社[注 2]であったため、ラジオでは『朝日新聞ニュース』と『毎日新聞ニュース』が交互に放送されていた。[注 3]。また大阪支社(およびかつての広島支社や鳥取支社)は朝日新聞社系列のビルに入居しており、TBS-毎日系列と朝日系列双方と関係が深いといえる。その一方、地元紙の山陰中央新報(旧:島根新聞)や日本海新聞との関係は資本面では希薄である[注 4]

1980年代から「あいらぶ山陰BSS」のキャッチコピーが使われているが2004年(平成16年)に開局50周年を迎え、新たに「スイッチ!BSS」のキャッチコピーが登場した。それに伴い、イメージキャラクター「ラッテちゃん」も登場している。なお、近年はラジオ用のキャッチコピーも用意されており、2008年(平成20年)?2020年9月は「つながろっ!BSSラジオ」が使われていた。2020年10月からは「ラジオっていいね!BSSラジオ」に変わっている。

ラジオ・テレビともNHK鳥取放送局NHK松江放送局のように県別の地域放送は一切実施していない(同じエリアの民放各局も同様)。ラジオの場合、鳥取県にある米子本社送信所と島根県にある松江FM補完中継局だけで鳥取県西部と島根県東部を2県またいでカバーしているため、京都放送(KBS京都・KBS滋賀[注 5]や2021年9月までの長崎放送(NBCラジオ・NBCラジオ佐賀[6]のような県別の地域放送を実施するのは無理があり、テレビもかつてのアナログ放送、現在のデジタル放送とも島根県にある松江本社送信所でラジオと同じく鳥取県西部と島根県東部を2県またいでカバーしているためである(原因は後述)。ただし、CMは差し替えることがあり、またかつて実施していたラジオの高校入試合格者速報では、鳥取県の日は鳥取県の放送局・中継局で、島根県の日は島根県の放送局・中継局と本局とで放送していたことがある。

米子市に本社、親局を置く唯一の民放(コミュニティFM局のDARAZ FMは除く)でもある。
事業所所在地
本社
683-8670 鳥取県米子市西福原1丁目1番71号
鳥取支社
〒680-0031 鳥取県鳥取市本町3丁目201番地 鳥取産業会館・鳥取商工会議所ビル5階かつては朝日新聞系列のビルに入居していたが、建物の老朽化に伴い移転。なお現ビルについては、建て替え前には日本海テレビの本社が入っていた。
松江支社
〒690-0887 島根県松江市殿町111番地 松江センチュリービル8階
出雲支社
〒693-0002 島根県出雲市今市町北本町1丁目1番3号 セントラルビル4階
石見支局(島根報道部)
〒697-0026 島根県浜田市田町1655番地 第2オリンピアビル2階2016年7月に西部支社から改称。
東京支社
〒104-0061 東京都港区赤坂2丁目5番8号 ヒューリックJP赤坂ビル SPACES赤坂4F2021年3月から系列の東北放送テレビ山梨チューリップテレビ大分放送なども入居するビルに移転。
大阪支社
〒530-0005 大阪府大阪市北区中之島2丁目3番18号 中之島フェスティバルタワー東地区17階[注 6]大阪支社が入居する中之島フェスティバルタワー東地区
広島支社
〒730-0032 広島県広島市中区立町1番23号 ごうぎん広島ビル5階
出典[1]

沿革開局当時のラジオ山陰本社(1954年)。

前身である株式会社ラジオ山陰(ラジオさんいん、略称 RSB:Radio San-in Broadcasting Co., Ltd.)は、戦前から無線を専攻し、戦後に境海上保安部通信所長をしていた野坂一郎と、無線技師で弟の陞三(前米子市野坂康夫の父)が1950年(昭和25年)4月の放送法・電波法の改正を受けてそれまで検討中だったラジオ局開局を本格的に決心したことに始まる。2人の父(すなわち康夫の祖父)で、戦前から米子市会議員を務めるなど地元の有力者であった野坂康久は2人の構想に賛同し、3人で設立申請書を作成、地元財界への働きかけ[7]を行い、康久のよき理解者であった米子信用金庫青砥喜三郎理事長(当時)の協力で、坂口平兵衛 (2代)をはじめ田部長右衛門 (23代)米原章三ら各氏が発起人に参加、三好英之が代表となって1952年(昭和27年)12月に申請書を提出。翌1953年(昭和28年)9月予備免許が下りた。右から野坂康久坂口平兵衛 (2代)青砥喜三郎高松宮宣仁親王青砥昇織田収野坂一郎、伊坂定吉、野坂寛治
1954年(昭和29年)、ラジオ山陰開局)

康夫の回想[7]にもあるように、開局当時の社屋は米子市東倉吉町の小安ビルの2階に入居していたが、そのビルの1階にはパチンコ店が入居していた。入口もパチンコ店との共用で、社員や出演者は営業中のパチンコ台の間を抜けて行く必要があった。スタジオはパチンコの騒音を防ぐための防音工事に苦慮したという。このため開局当時は「パチンコ放送局」と呼ばれていた。また、送信所も電電公社(後のNTT、両県では現在のNTT西日本)の施設を間借りしていた[8]

その後、1959年(昭和34年)12月15日にテレビ放送を始め、1961年(昭和36年)6月1日に社名を株式会社山陰放送(略称 BSS:Broadcasting System of San-in Inc.[注 7])に改める。
年表

1953年昭和28年)12月14日 - 株式会社ラジオ山陰(RSB)を設立。取締役会長坂口平兵衛 (2代)、社長は織田収

1954年(昭和29年)3月1日 - 鳥取県米子市から鳥取県・島根県の両県に向けたラジオ放送(JOHF)を開始。全国33番目。

1955年(昭和30年)11月23日 - 鳥取中継局を開局。

1956年(昭和31年)10月 - 米子局を900kc、鳥取局を1060kcに変更。(kcは現在のkHz)

1957年(昭和32年)10月22日 - 島根県を放送対象エリアとして地上アナログテレビ放送の予備免許交付。

1959年(昭和34年)12月15日 - 島根県松江市でテレビの地上アナログ放送開始(JOHF-TV、10ch / 1kW)。同時にテレビニュースネットワークJNNに加盟。JNNに加入したのはキー局・ラジオ東京(現在のTBSテレビ)とラジオ時代からの繋がりがあったこと、ラジオ東京(現在のTBSホールディングス)初代社長の足立正が鳥取県境港市出身だったためである。


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