はじめ俳優を志したが叶わず、三越の店員などを経て弁士となる。
向島福神館でデビュー、広尾不二館を経て、1923年(大正12年)より新宿武蔵野館専属となり、徳川夢声とともに同館の主任弁士を務めた。
映画がトーキーになってからは講談師の6代目一龍斎貞山の門下で一龍斎貞壽を襲名、さらに漫談家・俳優としてラジオや映画にも出演した。1926年(大正15年)古川緑波らと「ナヤマシ会」を結成。
1929年(昭和4年)、武蔵野館でトーキー映画の上映が始まると同年10月には休養を余儀なくされる[2]。
1958年(昭和33年)12月18日、心不全のため自宅で倒れ、死去した。享年59。墓所は都立雑司が谷霊園。
自伝『人情映画ばか』(1960年、日本週報社、大空社より復刻)がある。
主な出演映画
行けロスアンゼルス(1923年)
エノケンの弥次喜多(1939年) - 伴団六 役
エノケンの八百八狸 大暴れ(1950年) - 権助(狸) 役
エノケンの天一坊(1950年) - 講釈師愚山 役
脚注^ 木下華声『芸人紙風船』大陸書房
^ トーキー普及で弁士の失業続出『東京朝日新聞』昭和4年11月3日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p23 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
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