山縣亮太
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

小学3年生の時、2つ上の兄が広島市のスポーツ交歓大会100mで入賞してもらってきた賞状の大きさを羨ましく思い、陸上を意識するようになる[13][16]。4年生になった翌年、少年野球チームで一番足が速かったことから学校代表として同大会に出場するとスパイクを履いた選手たちにスニーカーで勝ち、優勝した[13][15][16][17]。これが陸上競技との出会いで[1]、走る姿が為末大も所属していた「広島ジュニアオリンピアクラブ」の指導者の目に止まり、スカウトされる[1][7][12][13][16]。このためしばらくは野球と陸上の掛け持ちだったが、陸上のチームメイトに「野球に行っていて、土曜日の練習に来ないじゃん。そういう奴に負けるのは嫌だ」と言われたりしたため[1][13][16]、「走ることは自分の天職だ」と考え、5年生からは陸上一本に絞るようになったという[13][16]。この年の全国大会では100mで8位に入賞している[1][18][19]

修道中学校に進学[7][10][16][18][20]。修道中時代は100mと400メートルリレーで全日中に出場。

中学から大学2年まで、深夜に車と競走する練習を続けた[16]
高校時代

修道高校1年時は大分国体少年B100mで優勝[1]

修道高校2年時の2009年世界ユース陸上競技選手権大会では100mで4位入賞し、メドレーリレーでは銅メダルを獲得した。

3年時の国体少年A100mを無風の中10秒34(±0)で優勝[20]。『月刊陸上競技』の表紙を飾る[20]。少しだけ追い風が吹いていれば、当時の高校記録(10秒24)を塗り替えていた可能性があったといわれる[20]

修道中・高の6年間は部活と並行して勉学にも励み、300人いる生徒の中で、東大京大への進学を目指す生徒もひしめく文系のトップクラスに籍を置き、成績は50番以内だったという[1][16]。インターハイ終了後に「慶應競走部の自由な競技環境だったら自分のやりたいことができる」と感じて慶應義塾大学を志願し、総合政策学部のAO入試(後期)を経て、慶應義塾大学総合政策学部に入学[16]。当時の慶大競走部には短距離専属の指導者はいなかった[20]
大学時代
2011年

慶大1年時の2011年山口国体男子100mにおいて10秒23(+1.8)の日本ジュニア記録(当時)を樹立して3位入賞[20]
2012年

慶大2年時の2012年織田記念陸上男子100m予選にて10秒08(+2.0)を記録し同年のロンドン五輪A標準記録を突破。

6月、ロンドンオリンピック短距離日本代表に選出された。大会の男子100m走では、8月4日の予選で自己記録を更新する10秒07(+1.3)の6組2位で、北京オリンピックの塚原直貴に続く準決勝進出を果たした[21][22]。8月5日の準決勝では10秒10(+1.7)の3組6位で、決勝進出を逃した。

なお、男子4×100mリレーでは日本チーム(山縣亮太?江里口匡史?高平慎士?飯塚翔太)の1走を務め、予選を38秒07の全体4番目の記録で通過。決勝では38秒35で4位入賞(USA失格、5位→4位に順位繰上げ)を果たした。
2013年

4月7日に東京六大学対抗に出場。昨年9月の日本インカレ・男子100m準決勝で右ハムストリングスを肉離れした影響により、100m予選が約7ヶ月ぶりのレースとなった。しかし、予選で10秒82(-6.4)、決勝では10秒47(-4.0)を記録。公認範囲の追い風2.0メートルだった場合、9秒台が出ていた可能性もあるタイムだった[23]

4月29日の織田記念・男子100mでは、予選でモスクワ世界選手権の参加B標準記録(10秒21)突破となる10秒17(+0.1)を記録。決勝では追い風参考記録ながら自己ベスト(10秒07)を上回る10秒04(+2.7)を記録するも、予選で日本歴代2位の記録となる10秒01を記録した桐生祥秀に0秒01差で敗れ2位に終わった[24]。それまで山縣は次世代を担うダントツのエース候補だったが、主役の座を後輩に奪われた[20]

5月に関東インカレに出場すると、19日の男子100m決勝を10秒30(-1.4)で制して関東インカレ初タイトルを獲得。26日の男子200m決勝では日本歴代10位(当時)およびモスクワ世界選手権の参加A標準記録(20秒52)突破となる20秒41(-0.5)を記録し、100mとの2冠を達成した[25]

6月の日本選手権では、7日の男子100m予選で10秒14(+0.3)、8日の決勝で10秒11(+0.7)を記録し、2レース続けてモスクワ世界選手権の参加A標準記録(10秒15)を突破。織田記念では競り負けた桐生祥秀を0秒14差で破り、日本選手権初優勝を成し遂げるとともに、モスクワ世界選手権の代表入りを決めた[26]

7月にカザンで開催されたユニバーシアードの男子100mでは10秒21で2位になった。また、男子4×100mリレーでは日本チーム(山縣亮太?原洋介?与那国塁?飯塚翔太)の1走を務め、決勝では39秒12で2位になった。

8月にモスクワで開催された世界選手権に初出場。10日の男子100m予選では組3着までに入れば着順で準決勝に進出できたが、結果は10秒21(-0.4)の組4着に終わり、組3着とは0秒02差。タイムで拾われた最後の枠の選手とは0秒01差で準決勝進出を逃した[27]。また、このレース中に左ハムストリングスの肉離れを起こし、出場予定だった男子4×100mリレーには出場せずに大会を後にしたが、重症ではなかったので帰国後は1週間休みを取ってから練習を再開した[28]

9月7日に日本インカレの男子200m予選と4×100mリレー決勝を走った翌朝、ベッドから起きられないほどの腰痛が発生した。痛みはなかなか引かず、前屈すると痛みが激しかったため、スターティングブロックを蹴れるか不安だった[29]

10月に天津で開催された東アジア大会に出場すると、8日の男子100m決勝では地元中国の蘇炳添に同タイム着差あり(0秒002差)で敗れ、10秒31(-0.8)の銀メダルに終わった。しかし、9日の男子4×100mリレー決勝では日本チーム(山縣亮太?飯塚翔太?ケンブリッジ飛鳥?大瀬戸一馬)の1走を務め、日本学生混成記録および大会記録となる38秒44をマークしての金メダル獲得に貢献した[28]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:151 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef