山県有朋
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西郷隆盛とともに御親兵の組織と廃藩置県に尽力[1]

1873年の陸軍省創設で陸軍卿に就任。1878年にはドイツに倣った参謀本部を創設し初代参謀本部長に就任。1878年の軍人訓誡、1882年軍人勅諭の起案、頒布にあたった。1882年には参事院議長、1882年に内務卿、1885年に第1次伊藤内閣内務大臣に就任し、黒田内閣でも留任。1884年に伯爵、1890年に陸軍大将に昇進した[1]

1889年に第1次山縣内閣を組閣。軍備拡張をめぐり民党と対立し、自由党土佐派を切り崩して切り抜けたが、結局1891年に内閣総辞職。この際に元勲優遇の勅語を受け、以降元老として大きな政治力を発揮した[1]

日清戦争では第一軍司令官として出征。1898年に元帥。同年の第1次大隈内閣瓦解後、第2次山県内閣を組閣。憲政党と提携して地租増徴を行い、政党勢力の官僚機構進出を阻むため文官任用令改正、枢密院権限の拡大、軍部大臣現役武官制の制定などで官僚制を強化。また治安警察法の制定で台頭する労働運動に備えた。外交面では1900年の義和団事件で列強諸国と共にに派兵し列強諸国の一員となる地歩を固めた。同年に伊藤博文が立憲政友会を組織したことで内閣総辞職[1]

日露戦争では参謀総長として指揮し、その戦功で1907年に公爵。1909年の伊藤博文の死後には軍の巨頭として元老内の最有力者となったが[6]大正期に政党政治の力が本格的に強まってくると影響力を弱め政党政治を容認するに至った[1]。1922年に死去し、国葬に付された[1]
生涯
幼少期

天保9年閏4月22日1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の蔵元仲間組の山縣三郎有稔(中村喜左衛門の子)の長男として生まれた。長州藩における蔵元仲間組は戦時には武具を運び、平時には奉行所の下役人として働く足軽であり、両刀を差すことはできたが、一般の武士より低い扱いを受けていた[7]。母は有朋が数え年5歳のころに病没し、厳格な祖母のもとで育てられた[8]。有稔は手子役という、奉行所の下級職人であったが、国学を学び歌を詠むなど、学問に優れていた[9]。その父から勉強を教えられた。15歳で元服し、蔵元両人所、次いで明倫館の手子役となった[9]。その後は代官所の手子役となり、農村を回って実務を学んだという[10]。その後御徒目付の家来の横目役についた。このころには撃剣・槍術などの武芸にも励み、23歳ごろには宝蔵院流の使い手として藩内で知られていたという[11]。友人の杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる[12]
尊攘志士

安政5年(1858年)7月、時勢を学ぶためとして、山縣を含む6人の若者が京都に派遣されることとなった。派遣された6名のうち、4人は杉山と伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を始めとする松下村塾の塾生であり、山縣が選ばれたのは杉山が吉田松陰に推薦したためであるという[13]。京都では尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞梁川星巌梅田雲浜らに感化されて尊皇攘夷思想をいだき、10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した[14]。しかし翌月には松陰は謹慎の身となり、まもなく獄に下り刑死することになった[15]。山縣は松陰から大きな影響を受けたと語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた[注釈 1]。入塾間もない山縣に咎めはなかったが、他の塾生を入獄させないよう藩の重役に直談判するなどしている[14]

万延元年(1860年)には薩摩藩の動向を探るため、書状の届け役として薩摩に潜入しているが、警戒が厳しく薩摩弁も理解できなかったために役目を十分に果たせなかった[17]。この年には父有稔が病没している[17]

文久3年(1863年)1月3日には「尊皇攘夷」の正義をわきまえていると賞され、終身の士分に取り立てられた[18]。2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなった[19]。その後はリウマチを患って療養していたが、9月ごろからは高杉が創設した奇兵隊に関与するようになり[20]、12月23日に3代目総管・赤禰武人のもとで、副官に当たる奇兵隊軍監と壇ノ浦支営の司令に就任し、兵隊訓練と壇ノ浦警備に励んだ[21]
長州防衛戦奇兵隊軍監時代の山縣

元治元年(1864年)、長州藩では軍を率いて上洛するという声が盛んになった。山縣は岡山藩広島藩と連携するべきと考えていたが、容れられなかった。6月には池田屋事件が京都で発生、旧友の杉山が命を落とした[22]。長州の藩論は激高し、久坂玄瑞や入江九一などが京都に潜入した。山縣も上洛を願い出たが、下関海峡の警護が重要であるとして、藩主命令で差し止められた[23]。7月19日には禁門の変が発生し、久坂と入江ら同門の友人たちが命を落とした。

さらに8月には下関海峡を四カ国連合艦隊が襲撃した。この下関戦争で、山縣は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している[24]。さらに第一次長州征討をうけたことで、幕府に恭順しようとする椋梨藤太ら俗論派が台頭した。これに高杉ら正義派は反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。総管赤禰は俗論派との話し合いを考えており、山縣は反乱が時期尚早と考えていたため同調しなかった。しかし俗論派によって正義派の前田孫右衛門ら(甲子殉難十一烈士)が斬罪にされたことで、奇兵隊をふくむ諸隊では反俗論派の声が高まった[25]。翌元治2年(慶応元年、1865年)1月2日、赤禰が奇兵隊を脱走し、山縣が事実上奇兵隊を掌握した。1月5日には高杉を支援することを決め、以降は俗論派との戦闘で次々に勝利を収め、正義派を勝利に導いた[26][27]。しかし2月6日ごろから病気となり、5月6日に一旦軍監を免じられ、一ヶ月後に復帰している[28]


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