山田風太郎
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山田 風太郎
(やまだ ふうたろう)
世界社『富士』より(1952年)
誕生山田 誠也
1922年1月4日
兵庫県養父郡関宮村
死没 (2001-07-28) 2001年7月28日(79歳没)
東京都多摩市
墓地上川霊園
職業小説家
国籍 日本
主題伝奇小説、ミステリ、時代小説
代表作『魔界転生
忍法帖シリーズ
明治物
主な受賞歴探偵作家クラブ賞(1949年)
菊池寛賞(1997年)
日本ミステリー文学大賞(2000年)
デビュー作『達磨峠の事件』
ウィキポータル 文学
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山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年1月4日 - 2001年7月28日)は、日本小説家。本名は山田 誠也(やまだ せいや)[1]。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人。東京医科大学(入学時は東京医学専門学校)卒業[1]医学士号取得。

南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた伝奇小説推理小説時代小説の3分野で名を馳せる。特に奇想天外なアイデアを用いた『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される大衆小説で知られている。2010年平成22年)、その名を冠した「山田風太郎賞」が創設された[2]
筆名

筆名は、中学生時代に3人の友人らと互いに呼び合うのに用いた雷 / 雨 / 雲 / 風という符丁、そして受験雑誌への投稿時代にペンネームとして使用した「風」に由来する[3][4]。当初は「かぜたろう」と読ませたかったようである(国立国会図書館のデータベースにその名残が見られる)が、最終的に「ふうたろう」で定着した。なお、戦前・戦後の映画・芸能雑誌をコレクションしていた色川武大が、その雑誌の中から、たまたま学生時代の「風太郎」名義の投稿を発見し、その頁のコピーを山田に送ったこともある。

生前に戒名を「風々院風々風々居士」と自ら定めた[1]上川霊園八王子市)にある墓碑には「風ノ墓」とのみ刻まれている[1]
来歴
生い立ち

1922年(大正11年)、兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市)で「山田医院」を開業していた父母ともに代々医者の家系に生まれる[1]

5歳のとき、父・太郎が脳卒中で急死[1]。9歳のとき、山陰の漁村・諸寄村に転居する[1]。11歳のとき、母親が亡父の弟で医師である叔父と再婚して山田医院を再開、故郷の関宮へ戻る[1]

1935年(昭和10年)、兵庫県立豊岡中学校(旧制中学=5年制、現在の兵庫県立豊岡高等学校)に入学し、寮生活が始まる[1]。旧制中学時代の教師に奈良本辰也[5]吉田靖彦 (国際政治学者)は中学の同級生で友人[6]1936年(昭和11年)、母・寿子が肺炎により死亡し、「魂の酸欠状態」となる[1]。叔父は別の女性と再婚するが、養父母になじめず、「不良学生」となる[1]。3度停学となる[1]

1940年(昭和15年)、旧制高等学校の合格はならず、2年間浪人。1942年(昭和17年)8月、家出状態で上京[1]。この年に受けた徴兵検査で肋膜炎のために入隊を免れる(当時、甲種と乙種合格の者のみが徴兵されていた)。沖電気の軍需工場(品川)で働きながら受験勉強を続け、1944年(昭和19年)に旧制東京医学専門学校(後の東京医科大学)に合格。入学後は読書を心の支えに虚無的な生活を送るも、1945年(昭和20年)5月に空襲で焼け出されて山形に避難し、沖電気時代の恩人である高須氏夫人の連れ子にあたる佐藤啓子(当時13歳)と出会う。後に学校ごと長野県の飯田に疎開

敗戦前日には異常な精神状態となり、友人と徹夜で議論。「日本を救うためには不撓不屈の意思の力であと三年戦うしかない、無際限の殺戮にも耐え抜いたときのみにこそ日本人の誇りは守られる」と訴えた翌日の日記には「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみ記された。

1953年(昭和28年)に妻子を得、終生を伴とする。

日本の敗戦についてはその後、「最大の敗因は科学であり、さらに科学的教育の不手際であった」と日記に著している[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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