山田風太郎
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1958年(昭和33年)に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りとする忍法帖もので流行作家となる。これは安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた作品群である。1963年(昭和38年)から講談社より発売された『山田風太郎忍法全集』は全10巻の予定であったが、刊行途中で連載を終えた『柳生忍法帖』の上・中・下巻と短編集2冊を加えて全15巻となり、累計で300万部を売り上げるベストセラーとなった。

その後も掲載紙を問わずに多数の長編・短編が執筆された。その中には細部の設定を詰めずに連載を開始したものも多かった。特に柳生十兵衛三部作の第一作『柳生忍法帖』は当初は『尼寺五十万石』と題され十兵衛が登場する予定はなく、第二作『魔界転生』は、どんな忍法が登場しても大丈夫なように適当な題名『おぼろ忍法帖』をつけたものの、結局内容にそぐわなくなった。そのため『尼寺五十万石』は単行本化の際に、『おぼろ忍法帖』は角川文庫収録時に『忍法魔界転生』、後述する1981年の映画化の際に現行の題名に改題された。

同時期に白土三平貸本劇画忍者武芸帳 影丸伝』を発表しているが、従来の「忍術」を「忍法」に変えたことが共通する程度で、作風的には、あまり類似性はない。山田は生前、白土の漫画のことを読んだことがない[9]と語っており、それぞれ、同時代に時代精神として並行して発生したものだと考えられる。

なお、1961年(昭和36年)から連載された横山光輝の漫画作品『伊賀の影丸』は、風太郎忍法帖の影響大の作品である。

忍法帖シリーズの執筆は1960年代の終わりまで続くが、1970年代に入ると幕末を舞台とした時代小説を中心に手掛けるようになる。忍法帖の様式に当てはまる最後の作品は、明治初期を舞台とした『開化の忍者』(1974年(昭和49年))である。
空白の幕末期

幕末を舞台とした短編は1970年代を中心にいくつか書かれているが、長編としては天狗党の乱を描いた『魔群の通過』と、明治元年に薩摩兵が惨殺されたことに対する報復による元幕臣の悲劇を描く『修羅維新牢』、国定忠治の息子が侠客修行の旅を続けるうちに維新の騒乱に身を投じる『旅人国定龍次』などがある(『修羅維新牢』は幕末の動乱が収まっていない時期であるため明治もののカテゴリーからは外れる)。

いずれも、維新のいわゆるヒーローのような人物がほとんど関わらない出来事を取り上げているのが特徴である。『旅人国定龍次』については後半、維新の志士や新撰組坂本龍馬などが登場し物語に大きく関わりはするが、維新の部外者である侠客の目を通して、一定の距離を置いた幕末の動乱が描かれている。
明治もの・史実の交差

幕末の作品が橋渡しをする形で、1973年(昭和48年)に、明治時代を舞台とした『警視庁草紙』の連載がオール讀物で始まる。“明治もの”と呼ばれる作品群は、明治6年から8年を舞台とした『警視庁草紙』から、基本的に作を進めるごとに時代が下ってゆく。風太郎原作・福田善之の戯曲『幻燈辻馬車』1992年初演(主人公は元会津藩士。三遊亭円朝大山巌捨松田山花袋川上音二郎貞奴坪内逍遥が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた有馬四郎助原胤昭幸田露伴細谷十太夫横川省三鈴木音高井上伝蔵岩村高俊新島襄が登場)は明治19年から20年が舞台。『明治断頭台』は例外的に遡って、1869年(明治2年)から1871年(明治4年)の最初期を舞台にしている。

日本人に馴染みの深い、あるいは名前を知っている歴史上の人物や事件を交差させる手法が特徴である。史実と史実の間を独創的なエピソードによってつなぐこの手法は、人物や事件を可能性の中から模索して結びつけることに成功している。ほとんどの作品は破綻を見せずに完成させているが、意図的に史実を無視した部分も存在する。これは他の時代を扱った作品においても同様である。

1986年(昭和61年)発表の『明治十手架』を最後に、明治物の作品執筆は終了する。
室町と晩年

1989年(平成元年)、足利義政を主人公とした『室町少年倶楽部』を皮切りに、資料面の不足などから当時敬遠されていた室町時代を舞台にした“室町もの”と呼ばれる作品群を発表した。この中には、以下のような作品がある。

『婆沙羅』 - 南北朝時代に、ばさら大名と呼ばれた佐々木道誉の奔放な人生。

『室町お伽草紙』 - 少年時代の豊臣秀吉を中心に、京に集った若き日の織田信長武田信玄上杉謙信の物語。

十兵衛 三部作の完結編『柳生十兵衛死す』(1991年(平成3年)発表)

『柳生十兵衛死す』は「小説を書くとその分命を縮める」と考えていた山田が書いた最後の小説でもあるが、実際は白内障糖尿病パーキンソン病を次々患ったことで執筆活動そのものが困難になっていたとされる。そのためか晩年には、アイデアはあると語っていたが、小説にすることはなかった。室町時代を舞台に蓮如を狂言回しとして、八犬伝の犬士たちが活躍する室町ものの構想もそのひとつであるが、もし執筆されれば室町ものと忍法帖とのあいだの年表上の空白を補い、「忍法八犬伝」、「八犬傳」とあわせて八犬伝三部作ともいえる作品になったはずであった。なお、室町・戦国・江戸・明治・戦後初期と、それぞれ舞台とした小説の空白期間である、大正期・戦前期についての作品を書いて、風太郎サーガとして「時代の流れをすべて続ける」構想もあった。

90年代は随筆や対談、インタビュー集が出版されたが、その中でもパーキンソン病にかかった自分自身を見つめたエッセイ『あと千回の晩飯』は出色の出来である。

2001年(平成13年)7月28日肺炎のため東京都多摩市の病院で死去[10]。命日である7月28日は奇しくも師の江戸川乱歩の命日と同日である。

2003年(平成15年)には故郷兵庫県養父市の旧関宮小学校跡に山田風太郎記念館が開設された[1]
歴史・死生観


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