山田太一_(脚本家)
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山田 太一
プロフィール
本名石坂 太一
[1]
誕生日 (1934-06-06) 1934年6月6日[1]
出身地 日本 東京市浅草区[2]
死没日 (2023-11-29) 2023年11月29日(89歳没)
死没地 神奈川県川崎市
主な作品
テレビドラマ『それぞれの秋
高原へいらっしゃい
さくらの唄
今はバラ色が好き
緑の夢を見ませんか?
沿線地図
獅子の時代
午後の旅立ち
想い出づくり。
早春スケッチブック
夕暮れて
ふぞろいの林檎たち
真夜中の匂い
シャツの店
深夜にようこそ
夢に見た日々
チロルの挽歌
春の惑星
時は立ちどまらない
映画『少年時代
受賞
芸術選奨文部大臣賞
第2回向田邦子賞
第33回菊池寛賞
第1回山本周五郎賞
第14回日本アカデミー賞最優秀脚本賞
ほか受賞歴参照
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山田 太一(やまだ たいち、1934年6月6日[1] - 2023年11月29日)は、日本脚本家小説家。本名:石坂 太一[1](いしざか たいち)。東京市浅草区出身[2]

松竹木下惠介助監督をした後、フリーとなり、テレビドラマの脚本家に転身。数々の話題作を次々と生み出し、多くの賞を受けた。小説家としても地位を確立。映画や舞台も手掛けている。
来歴
生い立ち・学生時代

東京市浅草区生まれ。

父親は愛知県[3]、母親は栃木県真岡市出身[3][4]。両親は浅草六区で大衆食堂を経営していた[2][4]。小学校3年のとき、強制疎開神奈川県足柄下郡湯河原町に家族で転居する[4]

神奈川県立小田原高等学校を経て、1958年早稲田大学教育学部国語国文学科を卒業[2]。早稲田大学の同窓に劇作家寺山修司がいた[2]。在学中、寺山とは深い親交を結び、寺山がネフローゼで休学・入院すると山田は頻繁に見舞って話し合った[5]。寺山の母から見舞いを控えるよう叱責された後は手紙をやり取りした[2]。後に寺山脚本の映画『夕陽に赤い俺の顔』『わが恋の旅路』で山田は助監督を務めている。寺山の死去から32年が経過した2015年に、両者が学生時代に交わした書簡や寺山の日記を収めた『寺山修司からの手紙』が、山田の編著により岩波書店より刊行されている[5]

教師になって休みの間に小説を書きたいと思っていたが、就職難で教師の口がなかった。大学の就職課で松竹大船が助監督を募集していると聞かされ、松竹を受験する[2][6]
松竹入社から脚本家へ

松竹に入社後、木下惠介に師事[2]。助監督時代には、木下自ら再編集を行ったワイド(リバイバル)版『二十四の瞳』の予告編制作も手がけた[7]。木下には現在も敬愛の念を抱いているという[8]1960年代前半から、木下恵介の映画をテレビドラマに脚色する仕事を始めた[2]1965年に退社して、フリーの脚本家になる。

木下に「連続(ドラマ)を書いてみろ」と言われて、1968年木下恵介アワー枠の『3人家族』を執筆。「プロになろう。絶対当てよう」という意気込みで臨み、高視聴率を上げる。翌1969年の『パンとあこがれ』に携わって、初めて「テレビは面白い!」と思ったという[9]
1970年代

木下恵介に「書きたいように書いていいよ」と言われて発表した『それぞれの秋』(1973年[9] で、平凡な家庭が崩壊の危機に直面するさまをシリアスに描き、芸術選奨新人賞受賞。同じ1973年には、ヒッピー風の若者(萩原健一)と頑固な老人(西村晃)の確執と交流を描いた『河を渡ったあの夏の日々』(NHK)を発表した[10]

1976年NHKが脚本家の名前を冠した脚本家シリーズを開始し、その先発に選ばれる。「脚本家の名前が最初に出るということは後々みんなに影響すると思ってね(…)緊張してやった仕事」と回想している[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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