山田太一_(脚本家)
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木下恵介に「書きたいように書いていいよ」と言われて発表した『それぞれの秋』(1973年[9] で、平凡な家庭が崩壊の危機に直面するさまをシリアスに描き、芸術選奨新人賞受賞。同じ1973年には、ヒッピー風の若者(萩原健一)と頑固な老人(西村晃)の確執と交流を描いた『河を渡ったあの夏の日々』(NHK)を発表した[10]

1976年NHKが脚本家の名前を冠した脚本家シリーズを開始し、その先発に選ばれる。「脚本家の名前が最初に出るということは後々みんなに影響すると思ってね(…)緊張してやった仕事」と回想している[6]。“山田太一シリーズ”として発表された『男たちの旅路』は人気を博し、1982年まで断続的に継続した。なかでも 1979年の第3部のエピソード「シルバー・シート」は第32回芸術祭ドラマ部門大賞を受賞した。

東京新聞」に連載した小説を自身の脚色でテレビ化した『岸辺のアルバム』(1977年)が、高い評価を受ける。「戦後の日本の社会が一つの家族にどんな影響を与えてきただろうかということをプラスとマイナス両方込めて書いてみよう」[9] という意欲を持って執筆。中流家庭の崩壊をリアルに描き、それまでの和やかなホームドラマとは対照的な「辛口ホームドラマ」と呼ばれ、放送史に残る名作とされた[11]
1980年代

1980年に『獅子の時代』を執筆。大河ドラマとしては初めてのオリジナル作品となった。作品は好評を博したものの、「二度と大河はやらない(…)僕には向いてない」という思いを抱き[9]、以後の大河ドラマには参加していない。

想い出づくり。』(1981年)は24歳の女性たちを主軸にした群像ドラマで「今考えると嘘みたいだけれども、主人公が複数いるドラマがほとんどなかったんです(…)それで、どの人が主人公かわからないような作品を書いてみようという野心があった」という。裏番組が倉本聰脚本『北の国から』で、二大ライターの対決としても話題になった。本人は「そういう形で競争させられるのは、情けない思い」と述懐している[12]

早春スケッチブック』(1983年)は「小市民を非常に否定する存在を出して、その否定に(小市民は)どれくらい立ち向かうことが出来るか」[9] を描くという挑戦的な意図で臨んだ。視聴率は低迷したが、視聴者からの手紙や電話などで大きな反響を呼んだ。同じ1983年にスタートした 『ふぞろいの林檎たち』は、大学生の青春群像をリアルに描いて、1997年まで継続する人気シリーズとなる。

ラフカディオ・ハーンを主人公にした『日本の面影』(1984年)により第2回向田邦子賞受賞。『日本の面影』は1993年に自身の脚色で舞台化されて再演を重ね、2001年にはダブリンロンドンでも上演されている。

1986年の『深夜にようこそ』は、千葉真一インタビューを観て、だけでない一面を持っていると抱き、執筆した作品である[13]。千葉の主戦場であるアクション作品と対照的な同作は[14]、その演技・ストーリーが、名作ぞろいの山田ドラマの中でもトップクラスの傑作と評されている[15]

1988年、小説『異人たちとの夏』で山本周五郎賞を受賞。
1990年代以降

1990年代から2000年代には「連続ものをやめようという気持になってきた。連続の企画を実現させていくプロセスが、自分とちょっと合わないなという気がして」[9] というコメントを出している。

2009年の『ありふれた奇跡』にて12年ぶりに民放の連続ドラマに復帰した。

2017年1月に脳出血を患い、執筆が難しくなっていることを「週刊ポスト」(2017年9月1日号)のインタビューで明らかにした[16]

《もう脚本家として原稿が書ける状態ではありませんが、後悔はしていません。これが僕の限界なんです》と告白し、「事実上の断筆宣言」と報じられたことに対して、リハビリテーション中の山田は「朝日新聞」の取材に対して「あと1本くらい書く余裕はあるかも分からない」と、断筆宣言を否定している[17]
晩年?死去

2019年春頃から、マスコミ関係者と連絡が取れなくなり、「週刊女性」に「山田太一が音信不通に…老人ホームで孤独な生活」と報じられる[18][19]。記事では川崎市内の老人ホームに入居して20平米ほどの部屋で暮らしているというテレビ局関係者の情報が紹介されて「「病気になってしまってから、以前のように自由がきかなくなってしまったのがショックだったんじゃないですかね。脚本家の僕を知っている人たちとは、もう会いたくない」と近親者に話しているそうです」という該当テレビ関係者のコメントが載った。

該当の老人ホームを通じ、山田にインタビューを申し込んだが「個人情報のため、こちらにその方が入居しているのかどうかは、お答えすることができません」との返答だったため、裏付けは得られなかったとしている[19]。同じ記事では山田の次女による「今は(老人ホームとは)別の場所にいます。私の家とか、姉の家とかを行ったり来たりです」「今は仕事をしたいという感じじゃないんです。他のことをやったりという感じです」というコメントが紹介されている[19]

2020年、「ラジオ深夜便」(NHK)[20]に出演し(収録はそれよりも前)「書きたいテーマ」について「本当に自分本位に考えれば、死を待っているわけですから、死ぬということがどういうことかということを、ワッと書けたら素晴らしいと思いますけどね」とコメントした[19]

2023年11月29日、老衰のため神奈川県川崎市の施設で死去[21]。89歳没。訃報は12月1日に家族より公表された[22][23]
作風

若い世代から老人まで、さまざまな世代の人物を登場させることが多い。その点は「前世代があって、良くも悪くも次世代があるわけで、まったく切り離されて、ある世代が存在してるわけでもないから」と話している[12]

沿線地図』などで笠智衆を脇役に起用していたが「笠智衆さんを主役に仕事をしたいという思いが」あったので『ながらえば』を皮切りに『今朝の秋』など笠主演のドラマを4本執筆。「他の人も笠さんを獲得したがっている時に、僕が掴まえてしまうんだから(…)いいものにしなきゃという思いは非常に強かった」[9] と回想する。

自らが脚本を担当した1972年NHK連続テレビ小説藍より青く』では、山田自身が作詞し、湯浅譲二が作曲、本田路津子が歌唱した『耳をすましてごらん』を製作。『ふぞろいの林檎たち』シリーズでは、1978年デビューのサザンオールスターズを使用した。

例えば「作り手の顔がちゃんと見える作品」が、良い作品だと考えているという[24]
周辺人物

男たちの旅路』シリーズや『獅子の時代』『シャツの店』『秋の一族』などで組んだ近藤晋プロデューサーを「名プロデューサー」と称している[25]

演出家では『冬構え』『シャツの店』『友だち』『今朝の秋』などを撮った深町幸男を「有能な演出家」と記している。


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