山東京伝
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艶本『艶本枕言葉』刊行。

黄表紙『江戸生艶気樺焼』刊行。

洒落本『息子部屋』刊行。


天明6年(1786年):新内めりやす「すがほ」を作詞する。

図案集『小紋新法』[29]刊行。

黄表紙『江戸春一夜千両(えどのはる いちやせんりょう)』『明牟七変目景清(あくしちへんめ かげきよ)』刊行。

洒落本『客衆肝照子』(きゃくしゅ きもかがみ)刊行。


天明7年(1787年

洒落本『古契三娼』『総籬(そうまがき)』刊行。

見立て本『初衣抄』刊行。


天明8年(1788年):蔦屋重三郎らと日光中禅寺に旅行に行く。妹の黒鳶式部(実名よね)が死去。

黄表紙『時代世話二挺鼓』『会通己恍惚照子(かいつううぬぼれかがみ)』『小倉山時雨珍説(おぐらやま しぐれのちんせつ)』刊行。

洒落本『吉原楊枝(よしわらようじ)』『傾城?(けいせいけい)』刊行。


天明9年・寛政元年(1789年):黄表紙本[注 10]に描いた挿絵が咎めを受け過料処分となる。

黄表紙『真実情文桜(しんじつせいもんざくら)』『碑文谷利生四竹節(ひもんやりしょうのよつだけぶし)』『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』『奇事中洲話(きじもなかずわ)(きじもなかずわ)』『花東頼朝公御入(はなのおえど よりともこうおんいり)』を刊行。

洒落本『廓大帳(くるわのだいちょう)』『新造図彙(しんぞうずい)』『志羅川夜船(しらかわよふね)』『通気粋語伝(つうぎすいごでん)』刊行。

意匠図案のパロディ『小紋雅話』(1790年)

寛政2年(1790年):遊女(番頭新造)菊園を妻に迎える。曲亭馬琴が訪れ入門を乞う。過料に処せられたことを理由に戯作執筆をやめようと考えるが、蔦屋重三郎の懇請で思いとどまる。

図案集『小紋雅話』(挿絵参照)刊行。

黄表紙『玉磨青砥銭(たまみがく あおとがぜに)』『照子浄頗梨(かがみの じょうはり)』『山??蹴転破瓜』(やまほととぎす けころのみずあげ)『心学早染艸(しんがく はやそめくさ)』『京伝憂世之酔醒(きょうでん うきよのえいさめ)』刊行。

洒落本『京伝予誌(きょうでんよし)』『繁千話(しげしげちわ)』『傾城買四十八手(けいせいかい しじゅうはって)』刊行。

児童向けの『通俗大聖伝』刊行[30]


寛政3年(1791年):洒落本3作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖50日の処分を受ける。自宅を洪水に見舞われた曲亭馬琴が逗留し執筆を助ける。筆禍後は思い屈したため、曲亭馬琴・感和亭鬼武らがしばしば代作を行なう。このころから万象亭(森島中良)と疎遠になる。

黄表紙『人間一生胸算用(にんげんいっしょう むなさんよう)』『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめ めんやにんぎょう)』刊行。

洒落本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』『娼妓絹?(しょうぎ きぬぶるい)』『錦の裏』刊行。


寛政4年(1792年):曲亭馬琴を蔦屋重三郎の手代として推薦する。両国柳橋で書画会を開催する。

黄表紙『梁山一歩談(りょうざんいっぽだん)』『天剛垂楊柳(てんごう すいようりゅう)』『女将門七人化粧(おんなまさかど ひちにんげしょう)』刊行。


寛政5年(1793年):書画会の収益を元手に銀座に京屋伝蔵店(京伝店)[注 11]を開店する。妻の菊園が病死する。

黄表紙『貧富両道中之記(ひんぷくりょうどうちゅうのき)』『堪忍袋緒〆善玉(かんにんぶくろ おじめのぜんだま)』刊行。

滑稽図案集『松魚智恵袋(かつおのちえぶくろ)』刊行。


寛政6年(1794年):このころより書肆より潤筆料(原稿料)を得るようになる[注 12][要出典]。

滑稽図案集『絵兄弟』刊行。

黄表紙『忠臣蔵前世幕無(ちゅうしんぐら ぜんぜのまくなし)』『忠臣蔵即席料理』『金々先生造化夢(きんきんせんせい ぞうかのゆめ)』刊行。


寛政7年(1795年):父・伝左衛門が隠居する。越後の鈴木牧之から随筆出版に関して相談され、以後書簡を取り交わす[注 13]

寛政8年(1796年

黄表紙『人心鏡写絵(ひとごころ かがみのうつしえ)』刊行。


寛政9年(1797年):蔦屋重三郎が死去。

黄表紙『三歳図会稚講釈(さんさいずえ おさなこうしゃく)』『虚生実草紙(うそからでた まことぞうし)』刊行。


寛政10年(1798年

黄表紙『凸凹話(たかびくはなし)』『百化帖準擬本草?津虫音禽(ひゃくかちょう みたてほんぞうふでつむし こえのとりどり)』刊行。


寛政11年(1799年):父・伝左衛門が病死する。

黄表紙『仮名手本胸之鏡(かなでほん むねのかがみ)』『京伝主十六利鑑(きょうでんす じゅうろくりかん)』刊行。

読本『忠臣水滸伝 前篇』刊行[30]


寛政12年(1800年):遊女・玉の井(百合)を妻に迎える[注 14]相模浦賀伊豆三島駿河沼津などを旅行する[注 15]

寛政13年・享和元年(1801年

黄表紙『這奇的見勢物語(こはめずらしい みせものがたり)』刊行。

読本『忠臣水滸伝 後篇』刊行。


享和2年(1802年

考証随筆[注 16]『浮世絵類考』刊行。

黄表紙『通気智之銭光記(つきぢの ぜんこうき)』『早業七人前(はやわざ しちにんまえ)』『呑込多霊宝縁記(のみこんだ れいほうえんぎ)』『枯樹花大悲利益(かれきのはな だいひのりやく)』刊行。


享和3年(1803年):浅草伝法院における善光寺出開帳に店を出す。烏亭焉馬(落語中興の祖)60歳の祝宴に参加する。妻・百合の妹・滝を養女に迎える。

考証随筆『捜奇録』、見立て絵本『奇妙図彙』『怪談摸摸夢字彙(かいだん ももんじい)』刊行。

黄表紙『悟?迷所独案内(ごどうめいしょ ひとりあんない)』『裡家算見通坐敷(うらやさん みとおしざしき)』刊行。
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