山村美智
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2007年には、『私とわたしとあなたと私』の英語版に当たる『I and Me & You and I』が、オフ・ブロードウェイのブリーカーズ劇場で上演された。日本人が日本語で執筆したオリジナルの脚本を英語に翻訳したうえで、舞台作品としてオフ・ブロードウェイで上演した事例は初めてで、アメリカ人からも現地在住の日本人からも絶賛された。上演前に親友の深浦加奈子に相談していた事を自身のブログ内で語っている。2009年の帰国を機に、日本での女優業を再開。
人物
子供時代

伊勢市で建設会社を営む父と専業主婦の母の3人家族だったが、3歳の頃に父が亡くなり会社が倒産。小さな一軒家に引っ越した後キッチンを除く1階を人に貸して2階の一間で母と暮らし始め、ほどなくして保険の外交員となった母に育てられる[1]

幼少の頃は、気弱な性格で体も弱く幼稚園を休みがちだった。人生で初めて演じた役は、幼稚園の学芸会で演じた『白雪姫』の白雪姫を案内するうさぎの役[注 1]。セリフは一言だけだったが、本人は後年「演じてすごく嬉しかったのを鮮明に覚えています」と回想している[1]

小学生になるとテレビドラマを見ては女優に憧れを持つようになり、国語の朗読が好きになった。制服に憧れて中学からセントヨゼフ女子学園に進学し、演劇部に入部。高校1年生の時に上演した『クリスマスキャロル』で主役のスクルージ役を演じ、脚本と演出もこなした。大勢の生徒たちの前で演じる楽しさと、シスターからも好評価を得て芝居に対する喜びを感じ、本格的に女優を目指すようになる[1]
大学時代

上京を決意して津田塾大学に進学し、小平市のキャンパス内にある学生寮で暮らし始めた。同時期から一橋大学との劇団サークル・劇団己疑人(コギト)に入団し、演劇漬けの日々を送る。しかし、その後東大の学園祭で野田秀樹の芝居を観て衝撃を受け、才能の差を感じてしまい女優を諦めようとする。4年生になった頃に教師になることを決めて、母校の校長に志願する手紙を書いて内定をもらった[1]

残りの大学生活は、観客として芝居を楽しもうと東京キッドブラザースの公演を観に訪れた。するとチケット売り場に現れた劇団主宰の東由多加から、直々に「あなた、女優になりませんか?」と誘われた。これにより女優活動を続けることを決め、母に「一年だけ」との条件で芝居を続けることを許された[注 2]

1978年12月に同劇団の稽古に加わり、同年末の公演に参加し(一般の女優としての)初舞台は日本武道館だった。ちなみに大学3年生から国立駅近くの四畳半のアパートで暮らしながら家庭教師のバイトをし、大学院浪人中の恋人と付き合っていた。その後母と約束した1年が来て同劇団を退団[1]
エピソード

「ひょうきんベストテン」では、元ネタになった『ザ・ベストテン』TBS)における黒柳徹子の司会振りを参考に、黒柳のパロディを交えながら進行していた。当時(1980年代)の放送局では社員である女性アナウンサーにスタイリストを付けていなかったため、収録には山本寛斎などの衣装を借りて出演。衣装を汚さないよう留意していたものの、エンディングで放送されていた「ひょうきん懺悔室」(収録中にNGを出してしまった出演者やミスを犯したスタッフがブッチー武者扮する神様の前でNGやミスを懺悔させられるコーナー)で(「反省が足りない」と判断されて)水を容赦なく被らされた時には、着用していた衣装を自腹で買い取ったという。宅間との結婚直後に臨んだ『ひょうきん族』の収録では、NGやミスを犯していなかったにもかかわらず「ひょうきん懺悔室」へ出演させられたが、番組終了後の2021年に臨んだインタビューでは「今となってはいい思い出です」と語っている[8]。『ひょうきん族』での芸人たちによるイジリや掛け合いでは、本人は「それまで舞台で培われた度胸や臨機応変さで何とか乗り切れた」としている[1]

なお、フジテレビ退社後の1986年6月からは、本格的な音楽番組である『ロッテ 歌のアルバムNOW』(TBS)で1年3ヶ月にわたって司会を担当。同局が延べ20年以上制作してきた『ロッテ 歌のアルバム』シリーズの歴史を締めくくる役割を果たした。

『FNN DATE LINE』では初回(1987年10月1日)から平日版のキャスターを務めていたが、同年11月16日放送分での担当を最後に、わずか1ヶ月半で降板を余儀なくされた。降板をめぐっては、「11月16日の放送で三原山噴火関連のニュースを伝えた際に、『あんな島に住まなければいいのに』と発言したことが原因」とされる見解が当初から広まっているが、本人は後年のインタビューでこの見解を明確に否定。「実際の放送では『あんな島に住まなければいいと言う人もいますが、生活されている方にとっては、大切な故郷ですから』と言っていたにもかかわらず、前段の部分だけが切り取られる格好で広まってしまった」と述べている[9][10]

アルベルト・ザッケローニ内田篤人の存在をきっかけにサッカーにのめり込み[11]、日本代表の試合を観戦するため海外まで訪れている。2014年にはブラジルW杯の日本対コロンビア戦を現地観戦[12]2017年にはW杯アジア最終予選UAE対日本戦をUAEで現地観戦した[13]

一人っ子で、3歳の時に実父を亡くしてからは、宅間と結婚するまで実母と2人で暮らしていた[14]。実母に認知症が現れてからは、実母を看護施設に預けながら、女優業の合間を縫う格好で看護に努めている。さらに、夫の宅間が食道ガンに罹患していることが2019年に判明してからは、13回にわたる宅間の入退院にも立ち会った。宅間も一人っ子であったが、1年半もの闘病生活を経て、2020年12月18日に65歳で永眠。宅間との間に実子はおらず、実母の看護については、宅間を看取ってからも一人で続けている[15]。その一方で、2021年10月27日には、結婚生活や宅間の闘病中でのエピソードを綴った『7秒間のハグ』というエッセイ幻冬舎から刊行された。
出演
フジテレビアナウンサー時代

オレたちひょうきん族(「ひょうきんベストテン」初代サブ司会・1981年10月 - 1985年3月)

フリーランス時代

期間番組名役職担当日
1986年6月1日1987年9月27日
ロッテ 歌のアルバムNOWTBS)MC日曜日
1987年10月1日1987年11月16日FNN DATE LINE(フジテレビ)キャスター平日

テレビドラマ

NHK

家族注意報!(1996年) - 秋吉

ズッコケ三人組(1999年) - 北里竹子

蝉しぐれ(2003年) - 小柳ます

天花(2004年) - 篠田しのぶ

功名が辻(2006年) - 大蔵卿局

龍馬伝(2010年) - 「引田屋」の女将

セカンドバージン(2010年) - 那須田由紀子

激流?私を憶えていますか??(2013年)

日本テレビ

恋も2度目なら(1995年) - 土屋ハルミ

離婚シンドローム(2010年) - 伊藤光俊の母

火曜サスペンス劇場

弁護士・朝日岳之助17」(2002年) - 江口礼子

TBS

かけおち通り(1988年) - 矢吹妙子

湘南ペンション通り(1991年)

天使のように生きてみたい(1992年) - 土屋

徹底的に愛は…(1993年) - 有吉三和

人間・失格?たとえばぼくが死んだら(1994年) - 武藤妙子

私の運命(1994年 - 1995年) - 湯本晶子

あなたの人生お運びします!(2003年) - 吉田浩美

幸せになりたい!(2005年) - 大貫社長


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