山本周五郎
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それまでは博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵物冒険活劇を書いていた周五郎だったが[12]尾崎士郎鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の『キング』に時代小説を書くようになった[12]。当時の『キング』は発行部数140万部と雑誌界の首位にあった[注 3]。また講談社には時代小説を書くと決めていたらしく、山本周五郎のペンネームだけを使った[14]

1936年(昭和11年)、講談社から新進作家として扱われ、同社発行の『婦人倶楽部』『少年倶楽部』『講談倶楽部』『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載されるほどの売れっ子となった。また博文館も周五郎の「大人向け」作品を掲載するようになった。

太平洋戦争下の1942年(昭和17年)、『婦人倶楽部』で各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3話(「松の花」「梅咲きぬ」「箭竹」。全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、残りの4話(いずれも実在の人物で、それなりの周知されている人物)は他の作家が担当した。なお、「日本婦道記」は『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣ったものだという[15]

1943年(昭和18年)、第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[注 4]。直木賞史上、授賞決定後としては唯一の辞退者となった[注 5]。辞退の理由として[注 6]、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったことなどが挙げられる[19]。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、選考委員だった吉川英治の選評への反発の可能性も指摘されている[20]。なお、この頃、周五郎の年間執筆数の約6割 - 7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繋がったと考えられている[21]

米軍による日本本土空襲が激化すると、周五郎は隣組班長として妻子だけでなく住民の防空壕避難を指揮することもあった[3]終戦直前の1945年(昭和20年)5月に妻のきよえが亡くなると、本棚で棺桶をつくり弔った[3]

1948年(昭和23年)、旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする[22]

1967年(昭和42年)2月14日7時10分[1]、間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年65(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。

1988年(昭和63年)、功績を記念し、新潮社などにより山本周五郎賞が創設された[23]
年譜

1903年(明治36年)

6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。


1907年(明治40年)4歳

明治40年の大水害が発生する。大水害後、一家は東京府北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。


1910年(明治43年)7歳

北豊島郡王子町豊島の豊川小学校に入学するものの、今度は荒川が氾濫して住居が浸水被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。


1911年(明治44年)8歳

学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校2年に転学した。


1916年(大正5年)13歳

横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。


1923年(大正12年)20歳

徴兵検査を受けたが、視力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災し、一旦解散となる。その後豊橋神戸に転居。神戸では「夜の神戸社」へ編集記者として就職する


1924年(大正13年)21歳

再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である会員雑誌『日本魂』の編集記者となる。


1926年(大正15年・昭和元年)23歳

文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載され、これが文壇出世作となる。

10月20日、脳溢血で母・とく死去。


1928年(昭和3年)25歳


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