山形藩
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山形藩(やまがたはん)は、出羽羽前村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。
概要

もとは在地の戦国大名として山形を支配した最上家が、幕藩体制下では外様大名として57万石の大藩として治めた[1]。しかし最上家が改易され、徳川家譜代の鳥居家保科家御家門会津松平家の前身)の時代になると、東北地方における徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は20万石前後の中藩になった[1]

だが保科家が会津藩に移封されて幕藩体制が確立すると、山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。しかもこの時期の所領は6万石、多くても10万石程度の小藩となり、藩主も譜代大名のため在国より江戸滞在が長期化し、所領も関東飛び地が存在していたことから藩政は不安定だった[2]
藩史
最上家
最上義光:(前史)安土桃山時代まで

山形藩の藩祖は戦国時代よりこの地を支配していた最上義光である。最上氏室町幕府より羽州探題を任じられた斯波兼頼を祖とする名門だが[3]、戦国時代に入ると一族間の相続争いと重臣間の対立、隣国伊達氏の内政干渉などにより衰退していた。この中で最上氏第11代として登場したのが義光である。彼は父義守と対立して抗争を起こし、父を出家隠居させて強引に当主となった[4]。しかし天正2年(1574年)に義光の度重なる強引な施策に激怒した義守は娘婿伊達輝宗の支援を得て反乱を起こした(天正最上の乱[5]。だが義光には家中の宿老が味方し[5]、義守に味方したのは最上宗家に対して反抗・自立心の根強い天童頼長村山郡における豪族だけだった[6]。結局、争いは義光と伊達氏が白鳥氏の仲介で和議を結び[7]、最上氏をまとめた義光は以後村山郡の領国化を推進した[8]

その後も義光は細川氏、鮭延秀綱らを攻めて最上地方を平定[9]。また庄内地方にも進出し、同地を支配していた大宝寺義氏を天正11年(1583年)に滅ぼした[10]。川西地方(最上川西岸)も白鳥氏を謀殺し[11]、大江氏を自害に追い込んで平定した[12]。だが庄内の豪族には隣国越後上杉景勝の支援を受けて反抗する者もおり、特に義氏の跡を継いだ実弟の義興に至っては景勝の重臣本庄繁長の次男義勝養子にして義光に反抗した[13]。天正15年(1587年)10月、義光は義興を攻めて自害させ、庄内を完全に制圧した[13]。しかしこの義光の行為は当時豊臣秀吉に臣従していた上杉家に対する軍事行動で、また秀吉の出した関東・奥羽両国惣無事令に違反するものでもあり[13]、以後庄内は上杉を後ろ盾とした本庄繁長と最上義光の抗争の地となった。

天正16年(1588年)8月、最上氏が大崎合戦への救援に向かい庄内が手薄になっているのをみた本庄軍は軍事行動を起こした[14]。この時、義光の本隊は救援が間に合わず[15]、庄内在地の東禅寺氏や中山氏ら最上方豪族の連合軍が鶴岡と大山の中間に位置する十五里ヶ原で激突した(十五里ヶ原の戦い[14]。この戦いで最上方は大敗し、庄内を失った。またこの頃には徳川家康の仲介を受けて義光は早く上洛するように求められており、義光はこれを受けて家臣を上洛させて秀吉に謁見させている[15]。天正18年(1590年)に秀吉が小田原征伐を開始すると、家康から小田原参陣の要請を受けた義光は6月に参陣したことから所領13万石[16]を安堵された[17]。義光は次男家親を家康の近侍として差し出し[16]、一方で秀吉にも三男義親と愛娘駒姫を差し出してお家の安泰を図った[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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