山形藩
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だが最上家中には、義光が勢力拡大をするに及んで従わせた豪族や豊臣家への奉公を考える反主流派と、関ヶ原で取り立てられ徳川家への奉公を考える主流派の抗争があり[26]、この争いは反主流派に担がれていた義光の嫡男義康が殺害されるに及んで頂点に達した[27]。慶長19年(1614年)1月に義光が死去し、次男の家親が第2代藩主になると[28]、6月に反主流派は庄内の一粟兵部が反乱を起こすという軍事行動を起こした[28]。これは一粟が主流派の志村光惟と下秀実を殺害して起こしたもので[29]、この反乱を鎮圧した家親は反主流派に担がれていた実弟の清水義親を殺害した[30]。これで御家騒動は一段落したに見えたが、元和3年(1617年)3月に家親が山形において急死したことにより[30]、内紛が再燃した。家親の後継者には息子の家信(後の義俊、義光の孫)が立てられたが、わずか13歳の少年のため、幕府から厳しい内政干渉を受けての相続だった[31]

元和8年(1622年)8月、最上家は家親変死の訴えの他[32]、家親の弟山野辺義忠を擁立しての反主流派の蠢動[32]などいわゆる最上騒動と呼ばれるお家騒動のため、武家諸法度違反により改易となった[33]。義俊には近江大森藩にわずか1万石をもって転封となる。
鳥居家鳥居忠政の父、鳥居元忠

最上家改易後、その旧領には出羽新庄藩から上山藩本荘藩鶴岡藩など様々な藩が立藩された[34]。山形藩には20万石とも22万石とも、24万石[35]ともいわれる石高で[34]、徳川家譜代の重臣で磐城平藩12万石から加増移封された鳥居忠政が入部した[34]。忠政は関ヶ原合戦の前哨戦となった伏見城の戦い宇喜多秀家率いる西軍相手に奮戦して討死した鳥居元忠の嫡子である。幕府は元忠同様に忠政を信任しており、この山形移封は東国の押さえのためだった[34]。実際、庄内藩及び左沢藩の酒井家(各14万石・1万2千石)や新庄藩の戸沢家(6万石)、上山藩能見松平家(4万石)は鳥居家と姻戚関係にあり、東北に存在する米沢藩(30万石)の上杉家、仙台藩(62万石)の伊達家、久保田藩(20万石)の佐竹家を備えるための移封だったと推測されている[34][36][注釈 5]

忠政は領地を加増された上、軍事的な意味から転封されたので家臣団の増強と軍事組織の編成を行なった[37]。また元和9年(1623年)から翌年にかけて[38]元和検地を実施し、城下町の改造や整備[39]を行なった[40]

忠政は寛永5年(1628年)9月に死去し、家督は嫡子の忠恒が継いだ[41]。しかし忠恒は病弱で公務が務まらず[35]、嗣子が無いまま寛永13年(1636年)に継嗣が無く33歳で病死したので、末期養子の禁令に触れてしまい、鳥居家は改易となった[41][35]。のち、幕府は忠政の父・元忠の勲功が大きい事を考慮して[42]、忠恒の異母弟忠春信濃高遠藩に3万石(3万2000石とも)で鳥居家を継ぎ立藩している[42][41]

この鳥居家の改易に関して大政参与井伊直孝が「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」とした上で「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」としたため、幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(寛政重修諸家譜)として、所領没収となった。ただし、鳥居忠政と井伊直勝(直孝の兄)の時に直勝の正室(忠政の娘)の処遇をめぐって両家は対立しており、直孝もその旧怨から鳥居家を改易に追い込んだという説もある[注釈 6]
保科正之保科正之

鳥居家改易後、保科正之が寛永13年(1636年)7月に信濃高遠藩3万石から山形20万石に加増移封された[43][44]


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