竹鶴は醸造学を学んだのち、1916年に摂津酒造(現:宝ホールディングス)に入社[10]。同社オーナーの阿倍喜兵衛は鳥井と同様に本格的なウイスキー製造を志向しており、1918年から1920年にかけて竹鶴をスコットランドでのウイスキー留学に送り出していた[11]。しかし、竹鶴が帰国した1920年当時の日本は第一次世界大戦の戦争特需の終了で景気が低迷[12]、摂津酒造にはウイスキーへの投資を行う余裕がなくなっていた[12][13]。留学の成果も活かせないまま模造ウイスキーを製作することに落胆した竹鶴は、1922年に退社[14]。そこに竹鶴を推薦された鳥井が現れ、1923年6月に寿屋の入社が決定した[15]。
創業期の空中写真を基に作成2020年の山崎蒸溜所周辺の航空写真。画面左上が山崎蒸溜所。右下の川は左から順に桂川、宇治川、木津川。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
創業当時に稼働していたポットスチル。モニュメントになっている。2017年撮影
蒸留所の設置場所については、地形や気候がスコットランドに似ていることから北海道が理想だとしていた竹鶴と[9][16]、北海道では輸送などのコストが嵩むためことから消費地に近い場所で、かつ本社の大阪府に近いことが望ましいと考えていた鳥井で意見が分かれたが[9][16]、最終的に大阪と京都府の県境に位置する山崎の地が建設地として選ばれた[9]。山崎は名水の地として知られており、古くは万葉集で言及されているほか、水無瀬神宮に湧き出る「離宮の水」は名水百選に選ばれており、千利休も待庵という茶室を同地に置いていた[17][18]。また、蒸留所近郊で桂川、宇治川、木津川という3つの河川が合流していることから、年間を通じて濃霧が立つほど湿潤な気候であり[注釈 3]、ウイスキーの製造・熟成に非常に適した環境であった[9][17]。
1923年10月1日には蒸留所用地を購入し[19]、同月に建設を開始[2]。翌年の1924年11月11日に竣工した[2]。