山崎武司
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注釈^ a b c 「ア」の字は機種依存文字CJK互換漢字)(Unicodeでは、U+FA11)[1]
^ 中学の先輩には伊藤敦規(元阪神ほか)が[7]、後輩には2012年 - 2013年にチームメイトだった浅尾拓也(山アより16歳年下)[8]小山雄輝(元巨人)がいる[7]。山アは浅尾の義兄と八幡中時代に野球部でチームメイトだったほか、浅尾を野球教室で指導したこともあった[9]
^ しかしこの時、自身は乗り気でなかったことから「人をまとめる役目はやりたくない。自分の野球ができなくなる」と中村監督に告げたところ、「体罰が当たり前の時代」でありながら滅多に選手を殴らなかった中村から平手打ちを受けた[11]。山アはこのことについて「中村監督は『山アは型にはめると伸びないタイプだが、組織としての規律を知ってもらいたい』という親心から自分を主将に任命したのだろう。自分も『これはやらないとまずい』と考えて主将を引き受けた」と述べている[12]
^ @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}巨人のスカウトから「絶対うちが獲るから他の球団とは接触しないでくれ」「うちの1位指名は阿波野秀幸だが、外れ1位か2位で間違いなく君を指名する」と伝えられていたが、巨人は3球団競合の阿波野を抽選で外すと外れ1位で木田優夫、2位で水沢薫を指名し、チーム事情から結局2位までに山アを指名することはなかった。[要出典]
^ 山ア本人は「中日から指名を受けた直後はがっかりしたが、自分の目標はプロ野球選手になることだったし、『最悪でもセ・リーグなら』と考えていたので、やむなく中日入団を決意した。同時に指名する約束を反故にした巨人への闘志が沸き上がり、『巨人相手に活躍して自分の名前を全国に知らしめてやりたい』と決意した」と述べている[15]
^ 山ア自身は「目上の人間にも媚びない自分を認めてくれたのか、最終的には可愛がってくれる先輩が多かった」と述べている[18]
^ 山アは小松について「公私ともに背中を追い続け『いつかこんな選手になりたい』と尊敬の念を強めていた。いつか必ず恩返ししたい」と述べている[19]
^ 指導者としての落合については「監督は選手の個性をうまく引き出せなければいけないが、落合さんにはそのような能力があるとは思えない」と述べている[18]
^ 救出された子供のうち1人は声も出さずにいたが、山アが頬を叩くと意識を取り戻した[27]。山アはこの件に関して『中日新聞』(中日新聞社)記者の取材に対し「精肉店一家の女性の『子供が中にいる。助けて!』という叫び声を聞き、夢中で裏の戸口を開けて入った。煙がひどく、いったん外に出て深呼吸してから子供を助けた」と振り返っている[27]
^ 山アと同期のチームメイトである近藤真一が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。
^ 山ア本人は「同年に初の二けた本塁打を記録したことで『プロでやっていける』と手応えを掴んだ」と述べている[29]
^ 同年8月22日時点で山アは33本塁打、大豊と松井はそれぞれ32本塁打、江藤は30本塁打[31]。ただし、江藤は8月29日(当時は打率.314・32本塁打)の対巨人戦(広島市民球場)で打球処理の際にバウンドした球を顔面にぶつけて[32]骨折し、戦線離脱[33]。これにより本塁打王争いからも脱落した。
^ 山アは「それまでは手で相手を殴ることは『人としてやってはいけない行為』と感じていたから、詰め寄った段階でもガルベスが頭を下げれば何もしないつもりだったが、逆にガルベスがグラブを外して先に左手で自分に殴り掛かってきたことで頭に血が上り応戦した。今でも自分の行為を間違っていたとは思わない」と述べている[35]
^ 巨人の首脳陣はガルベスへの退場処分を不服として選手たちをロッカーに引き上げさせ、審判団に抗議した[36]。巨人の長嶋茂雄監督は放棄試合寸前まで態度を硬化させたが、最終的にはセ・リーグ連盟への提訴を条件に試合再開に応じた[34]
^ 同試合で中日は8回裏終了時点まで2対1とリードしていたが、9回表に抑えの宣銅烈が阪神のマーク・ジョンソンから20号逆転3点本塁打を被弾し、2対4で9回裏の攻撃を迎えていた[45]
^ 結局、中日は日本シリーズでダイエーに1勝4敗で敗退したが、シリーズで活躍したダイエーのエース・工藤公康(愛工大名電高校の先輩)は「山アがいない打線だから楽だった」と発言したほか、メディアも中日の敗因として「山ア不在」を挙げた[49]
^ 山ア本人は「この時は悲しさよりむしろ『俺を出した中日を見返してやる』という意気込みの方が強かった」と述べている[57]
^ 当初オリックス時代の同僚で、分配ドラフトで加入した辻竜太郎が7に内定していたが、山崎自ら辻を説得した結果、最終的にはオリックス時代と同じ48となった[64][65]
^ 次点は礒部公一(8票)、3位は岩隈久志と田尾監督(いずれも6票)[68]

出典^ 参考外部リンク…本来の表記と異なる変換文字を含む選手一覧 - 日本野球機構オフィシャルサイト(データは2013年3月29日現在)2020年8月22日閲覧。
^ a b 「【中日好き】心優しい“ジャイアン”こと、山崎武司のラストゲームを前に」J SPORTS、2014年3月19日。2018年3月12日閲覧。
^ a b 前中日・山崎氏がカーレーサー転身(『デイリースポーツ』2014年1月9日付記事)
^ a b c ベースボール・マガジン社 2016, p. 69.
^ 「山本昌×山崎武司 中日OB対談「ドラゴンズ愛を貫くヤマヤマコンビ」」『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2016年3月17日。2020年4月25日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2020年4月25日閲覧。
^ a b 『中日ドラゴンズ '97ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1997年3月18日、34頁。ISBN 978-4806203360。 
^ a b 「中日浅尾うれしい“知多ファイブ”」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2012年12月9日。2020年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。
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