山岳派
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その際マクシミリアン・ロベスピエール公安委員会を利用することで山岳派に対する権力を確かなものにし続けた[29]
山岳派の政策

土地の再分配政策を実現しようとすることで、山岳派は農村部の貧困層にもアピールしようとした。1793年8月、山岳派の一員だったジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスは農業改革に関する法律の草案を作成した。そこで特に「小作料を軽減すること、待遇改善のため補償を行うこと、土地の無期限保有を確証すること」を強く主張した[30]。この法律の目的の一つとして、南西部の小作人の不安を緩和することがあった。この草案が法律に反映されることはなかった。しかし徹底的な土地改革を含む草案は、山岳派が支持基盤として農村と都市両方の貧困層を満足させる必要性を認識していたことを示唆している[30]

貧困層の支援を目的とする別の政策として、山岳派は1793年に価格統制令を制定した。この法律は全面限界法令(英語版)と呼ばれ、山岳派内部のアンラジェとして知られる先導者集団から支持されていた。この法律はフランス全土の価格と賃金を統制した[18]。この時期、流通量が減少した為にパンの価格は上昇し、コロー・デルボワビョー=ヴァレンヌに主導されて、「日々の必需品」の買い占め・売り惜しみを禁じる法律が1793年に施行された[31]。穀物の買い占め・売り惜しみは、死刑で処罰される犯罪となった[32]

山岳派により実行された他の経済政策に、フランス商品の輸出禁止令があった。この輸出禁止令の結果、フランスは外国市場と貿易することが基本的に不可能になり、あらゆる商品の輸入は事実上終了した[33]。理論上は、外国の商品からフランスの市場を守り、フランスの人々が自国の商品を支持するようになるはずだった。輸出禁止令に加え、1793年10月に山岳派により可決された法律1651号によって、外国の船がフランス沿岸での貿易を行うことが禁止され、フランスは欧州全体からさらに孤立していった[34]
減退と凋落

山岳派の凋落と国民公会からの排斥は、革命の急進期が終わりロベスピエールが殺された1794年テルミドール10日(7月28日)頃から始まった。山岳派は強い団結を見せつけていたが、実際は内部にもロベスピエールに対する反対派が生じていた。その原因として、ロベスピエールと公安委員会があまりに強い権力を持ちすぎ、軍隊を厳しく統制したり政府内の汚職に対して厳罰で対処したことがあった[35]。彼らの増長に対する対抗心で他の有力者が団結し、テルミドール9日にかけて多くの陰謀が企画された。かつてジョルジョ・ダントンに率いられていた一団が行動を起こしたのは、ロベスピエールに殺されるという恐怖からだった(テルミドールのクーデター[27]

ロベスピエールの粛清はある種山岳派の内部抗争であり、その手法は山岳派がジロンド派のような他勢力を追放する手法と非常に似ていた。しかしロベスピエールは広く山岳派の中心と見なされていて、その死は山岳派の崩壊を象徴していた[26]。ごく少数の者だけが山岳派を名乗り続けることを望み、その数はたったの約100名だった。結局のところ、1794年末には山岳派は大部分がクレスト(フランス語: crete)と呼ばれる党派に移行していて、実質的な権力を失っていた[36]
派閥と著名人

山岳派は著名な左翼会派二つ(ジャコバン派コルドリエ・クラブ)が合併して1792年に誕生した。ジャコバン派は当初穏健な共和派で、コルドリエ・クラブは急進的な大衆主義者であった。1792年後半にダントンと支援者は、ロベスピエールとの決裂をきっかけにジロンド派との和解を求めた。1793年のジロンド派の裁判後にロベスピエールが権威主義政策を続ける一方でダントンは激しく穏健派になった。

ダントンの穏健派は、非山岳派全てとフランスの非キリスト教化運動の迫害を欲するジャック・ルネ・エベールのアンラジェとも対立していた。ロベスピエールが最初にエベール派(英語版)(1794年3月)を、それからダントン派(1794年4月)を排除すると、この派閥は山岳派を支配した。これは平原派に支援された陰謀者数人がクーデターを行うテルミドールのクーデターまでのことであった。ロベスピエールと支持者を処刑し、テルミドール派左派(英語版)を形成する山岳派から袂を分かった。生き残った山岳派は、逮捕されたり処刑されたり追放された。1794年から1795年にかけて山岳派は事実上抹殺された。
ロベスピエール派:


マクシミリアン・ロベスピエール

ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト

ジョルジュ・クートン

マリー=ジャン・エロー・ド・セシェル(英語版)

ピエール=フランソワ=ジョゼフ・ロベール(英語版)

ポール・バラス

ジョゼフ・フーシェ

オーギュスタン・ロベスピエール

ジャック=ルイ・ダヴィッド

ベルトラン・バレル(英語版)

ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ

ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ

ジャン=ランベール・タリアン

ルイ=ミシェル・ル・ペトリエ(英語版)

フランソワ・アンリオ(英語版)

ジャン=バプティスト・ド・ラヴァレット(英語版)

ジャン=バプティスト・フルリオ=レスコ(英語版)

アントワーヌ・シモン

エベール派(英語版):


ジャック・ルネ・エベール

ピエール・ガスパル・ショーメット(英語版)

ジャン=ポール・マラー (支持者)

ジャン=バプティスト=ジョゼフ・ゴベル(英語版)

アナシャルスィ・クロー(英語版)

フランソワ・シャボー(英語版)

ジャン・バプティスト・ノエル・ブーショット(英語版)

スタニスラス=マリー・マイヤール

フランソワ=ニコラ・ヴァンサン(英語版)

アントワーヌ=フランソワ・モモロ(英語版)

シャルル=フィリップ・ロンザン(英語版)

ジョゼフ・ル・ボン(英語版)

ジャン=バティスト・カリエ

穏健派(英語版):


ジョルジュ・ダントン

カミーユ・デムーラン

ファーブル・デグランティン(英語版)

トゥールーズのジュリアン(英語版)

ルイ=マリ・スタニスラス・フレロン

ピエール・フィリポー(英語版)

フランソワ・ジョゼフ・ウェステルマン(英語版)

イザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ(英語版)

選挙結果

選挙年全投票者数全投票者の
割合獲得議席の総数+/?代表
国民公会
1792年(英語版)907,200 (2)26.7200 / 749 64マクシミリアン・ロベスピエール
立法院
1795年(英語版)不参加(6)不参加64 / 750 136
1798年(英語版)不明(1)70.7175 / 750 111
1799年(英語版)不明(1)不明240 / 500 65

参照[脚注の使い方]^ a b c d e f g 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年11月9日閲覧。


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