山城
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戦国大名の権威の象徴
為政者を「城主」と呼ぶように大名と城郭は、結びつけられた。支配者である戦国大名の権威を民衆に知らしめるため、見え辛い山岳部から平地に移るようになった。為政者の権威を示す巨大な建造物が市域に作られるのは、何も戦国末期に限らないことである。特に巨大な天守は、本来の監視用の櫓としての機能を離れ、華美に装飾され、巨大化、高層化し、象徴的な建造物になった。
火縄銃の導入
木柵と浅い堀で防御した山城は、火縄銃による攻撃に脆弱であった。これを防ぐため何重もの深い堀と塀によって防御するようになった。また守備側も火縄銃で攻城側の兵を迎撃できるようになったので堀の深さをあえて槍の届く程度にとどめる必要がなくなった[3]。さらにこれまで最も重要な攻撃部隊であった騎兵が火砲に立場を譲るようになった。このため騎兵の動きを阻害する山岳部に城塞を築く必要性が下がった。
大規模化
城は、防衛施設から政庁舎として役割が移行していった。戦国大名が支配権を確立し、広大な領地を治めるようになると各地に割拠していた周辺の国人領主などを完全に家臣として組み込んで城下町に集住させるようになった。そのため城も大規模化する必要があったが、山城では規模に限界があった。また軍事面においても大規模な兵力を集結させる必要が出来、これまでの山城より大きな城塞が求められるようになった。後北条氏の小田原城、豊臣氏の大阪城、徳川氏の江戸城などは、市街地全体を防衛するまで拡大した。
石垣の導入
山城の時代から石積みによって土を盛るという技術は、存在した。しかし織豊期以降になると石垣の技術が向上し、これまでより大規模な土地造成が可能になった。平地でも高台を造ることが出来るようになると重要な街道に近い場所に敵の移動を阻害し、視界を確保できる高台を造ることが出来るようになったため不便な山岳部にわざわざ山城を造る必要がなくなった。

山城から平山城・平城に移行するにあたっては、麓に新たに主郭を築いて旧来の山城を「詰の城」とする例(萩城など)や、城郭を低い丘や平地に移転する例(備後福山城など)があった。また小田原城のように、元々は山城であったものが城と麓の城下町が拡張を繰り返した結果、両者が一体化し、城下町全体を惣構えで囲んだ大規模な平山城に発展した例もある。

勿論、すべての山城を平山城や平城に置き換える必要はなかった。平城化は、大名自身が居住する大規模な居城にとどまり、各地の山城は健在であった。また一部では、従来の山城のまま平山城・平城に移行しなかった場合もある。こうした山城の中には、石垣を導入したり火縄銃などに対応するために、むしろ従来より発展した例もある。例えば西国においては、放射状竪堀の導入が盛んになった。さらに従来の木柵ではなく平山城や平城の建築様式を取り入れ、狭間をもつ土塀で囲まれた、さながらトーチカのような鉄壁の要塞と化した山城もある(鷹取城など)。

城のほとんどが平山城・平城に移行するのは、一国一城令によって各地の山城を破却する江戸時代以降になる。ただし、江戸時代の大名の居城においても、山麓の居館と戦闘時に立て篭もる背後の山城の組合せという中世的様式を受け継いだ城も多く、伊予松山城鳥取城津和野城などがこれにあたる。萩城のように平城移行後も、山城時代の建造物を「詰の城」として残置したものもある。仙台城のように、江戸時代に入ってから山城を建造し、後に拡張により平山城に移行した例もある。
日本五大山城と日本五大山岳城

特に著名な日本の山城を取り上げた「日本五大山城」がある[4][5]

日本五大山城令制国名城名主な城主所在地
越後国春日山城上杉謙信新潟県上越市中屋敷
出雲国月山富田城尼子経久島根県安来市広瀬町富田
近江国観音寺城六角義賢滋賀県近江八幡市安土町
近江国小谷城浅井長政滋賀県長浜市湖北町伊部
能登国七尾城畠山義綱石川県七尾市古城町

小谷城の代わりに八王子城を入れた「日本五大山岳城」(2004年)もある[6]

日本五大山岳城令制国名城名主な城主所在地
出雲国月山富田城尼子経久島根県安来市広瀬町富田
能登国七尾城畠山義綱石川県七尾市古城町
近江国観音寺城六角義賢滋賀県近江八幡市安土町
越後国春日山城上杉謙信新潟県上越市中屋敷
武蔵国八王子城北条氏照東京都八王子市元八王子町

すべて国の史跡に指定されている。
海外「en:Spur castle」を参照

山城という区分は、上記の通り日本の独自用語である。しかし山岳部に建設された施設という概念で当て嵌まる海外の城は、存在する。

近世以前に建設された海外の山城としては、例えば古代ギリシアアクロポリスが有名である。また防衛施設かは、不明であるが南米のマチュピチュも広く知られている。さらに古代ローマ帝国ユダヤ反乱において使用されたマサダ要塞は、周囲を絶壁に囲まれ、難攻不落とされた。他にもクラック・デ・シュヴァリエなどが挙げられる。

やや、この概念から外れるもののノイシュヴァンシュタイン城は、近世以降の有名な海外の山城の一つと言える。

古代ローマは、パラティヌスの丘と他に幾つかの丘を防衛施設として建設された。ローマ市民は、外敵の攻撃から逃れるため、この丘を利用した。つまりローマ市そのものが山城であると見做すことも出来る。特にパラティヌスの丘は、建国の祖ロムルスと結びついていた。またローマ市民が元老院と対立して聖山事件を起こした。この時、アウェンティヌスの丘に市民たちは、立て籠もったとされる。さらに同じローマ市内にあるヴァティカヌスの丘に後世、聖天使城サン・ピエトロ寺院が建設され、中世から近世に至るまでローマが攻撃を受けた時に要塞として使用された。これは、現在、バチカン市国として知られる。
関連項目

日本三大山城

岩村城岐阜県

高取城奈良県

備中松山城岡山県


甲州流軍学による三大山城

久能城

吾妻城

岩殿山城


古代山城

平城

平山城

日本の城一覧

全国山城サミット - 山城を有する自治体の交流などを目的に平成6年から毎年秋頃に行われている。第1回の兵庫県和田山町(現在は朝来市)から始まり第19回(平成24年)の魚津市。第20回は朝来市の予定。

脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ 西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版、2008年。
^ a b 三島正之「川中島合戦と城郭(続)―関連城郭から展望する合戦の実像―」『中世城郭研究』第21号、中世城郭研究会、2007年、62頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 0914-3203。 
^ 平井聖監修・三浦正幸ほか執筆『城 6 中国』毎日新聞社、1996年
^ 小和田哲男『戦国大名浅井氏と小谷城』湖北町教育委員会、1992年、p. 4
^ 中井均『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版、2006年、p. 32


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