山城国
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和名抄』(平安時代中期成立)では、「河陽離宮」[3]

拾芥抄』(鎌倉時代中期から南北朝時代成立)では、「乙訓郡」[4]

節用集』(室町時代中期成立)では、「乙訓郡」[5]

国府は数度変遷したと見られており、現在では次のように推定されている。

1. 相楽郡8世紀前半まで。京都府木津川市山城町上狛(かみこま)と推定。当地には山城国分寺も所在。

2. 葛野郡8世紀前半から延暦16年(797年)まで。京都府京都市右京区太秦と推定。

3. 乙訓郡延暦16年(797年)から貞観3年(861年)まで。京都府長岡京市神足または久貝(南栗ヶ塚遺跡)と推定。長岡京南。

4. 乙訓郡貞観3年(861年)以後[6]。京都府乙訓郡大山崎町大山崎の河陽離宮(離宮八幡宮)と推定。

これらの度重なる移転は、遷都の影響とみられる[7]
国分寺・国分尼寺山城国分尼寺推定地に建つ碑

山城国分寺跡(京都府木津川市加茂町例幣・河原ほか、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分56.21秒 東経135度51分46.25秒 / 北緯34.7656139度 東経135.8628472度 / 34.7656139; 135.8628472 (恭仁宮跡(山城国分寺跡)))国の史跡「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」。国分寺は、僧寺と尼寺ともに相楽郡にあった。国分寺金堂は恭仁宮大極殿を転用したもので、天平18年(746年)9月に国分僧寺に施入された。元慶6年(882年)に焼失し、昌泰年間に再建されたと伝えるが、寺勢は次第に衰退し、鎌倉時代には宇治平等院末寺室町時代には奈良興福寺の末寺となった。場所は現在の木津川市加茂町例幣の恭仁宮跡で、巨大な金堂跡と塔跡が残る。

山城国分尼寺跡(京都府木津川市加茂町法花寺野か、北緯34度45分25.1秒 東経135度50分39.6秒 / 北緯34.756972度 東経135.844333度 / 34.756972; 135.844333 (山城国分尼寺推定地))国分寺からは木津川を挟み、南西約2kmの法花寺野地区に推定される。1925年大正14年)の府道敷設工事の際に大量の古瓦を出土したため、1927年昭和2年)に京都府史蹟勝地調査会が発掘調査を実施し、瓦積みの土壁遺構を検出した。これは当時、建物基壇の一部と判断されたが、瓦窯のロストルと見る説もある。なお、国分寺が恭仁宮から転用されたのと同様、国分尼寺も甕原離宮から転用された可能性が指摘されている。

神社

延喜式内社延喜式神名帳』には、大社53座37社(うち名神大社23座16社)・小社69座59社の計122座96社が記載されている(山城国の式内社一覧参照)。また、他に宮中の36座(大30座・小6座)、京中の大3座が記載されている(宮中・京中の式内社一覧参照)。

総社一宮

総社:不詳

一宮:賀茂神社(賀茂上下社)[8] - 以下2社の総称。

賀茂別雷神社(上賀茂神社、京都府京都市北区

賀茂御祖神社(下鴨神社、京都府京都市左京区

山城国の一宮指定には地方諸国と異なって神祇官が関わっているとされている。11世紀末から諸国でそれぞれに一宮が成立していく中で、畿内ではそれに対応して12世紀になってから決められたと考えられる。

二宮以下は存在しない。
守護所

守護所は、当初、山城国守護京都守護が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。その後、六波羅探題が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。室町時代に山城国を宇治川を境に上三郡と下五郡に分割して、それぞれに守護代を任ずるようになってからは、上三郡の守護所が宇治槙島に置かれ、下五郡の守護所が淀など数ヶ所に置かれた。
安国寺利生塔

安国寺 - 京都府京都市
中京区四条大宮に所在した

利生塔 - 法観寺 (京都府京都市東山区八坂河原東八坂上町)

地域


乙訓郡

葛野郡

愛宕郡

紀伊郡

宇治郡

久世郡

綴喜郡

相楽郡

※ 郡名は『延喜式』による。
江戸時代の藩

山城国の藩の一覧藩名居城藩主
淀藩淀城松平(久松)家(3万5千石、1623年 ? 1633年
永井家(10万石 → 7万3600石、1633年 ? 1669年
石川家(6万石、1669年 ? 1711年
松平(戸田)家(6万石、1711年 ? 1717年
松平(大給)家(6万石、1717年 ? 1723年
稲葉家(10万2千石、1723年 ? 1871年


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