山名義範
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上野国碓氷郡八幡荘の山名郷[2]を与えられ、山名氏を称した。

承安5年/安元元年(1175年)から安元3年/治承元年(1177年)頃には豊前国宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比較されて義範のみ新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の庶流の中でもかなり冷遇されていたと見られる。

父・義重は治承4年(1180年)8月に挙兵した源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の下に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された。治承8年(1184年)2月の源義経率いる平氏追討軍に参加。文治元年(1185年)8月には伊豆に任じられる。文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)、頼朝の上洛に供奉。建久6年(1195年)の2度目の上洛では東大寺供養の際に頼朝に近侍し、その嫡子・頼家の参内にも従っている。

いち早く頼朝のもとに参陣したのは、早くから足利氏との縁があったためであると伝わる。
系譜

父:
源義重

母:不詳

妻:矢田義清

子女

男子:山名義節


脚注[脚注の使い方]^尊卑分脈』足利氏の項では岳父・矢田義清が父で、義清の妻である義重の娘との間に生まれた子とする。
^ 現在の群馬県高崎市山名町周辺。


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