山口誓子
[Wikipedia|▼Menu]
同時期に斎藤茂吉の連作短歌に影響を受けて連作俳句の試みを始め[13]、これを後述する映画理論により補強。こうした過程で「や」「かな」といった切れ字を用いる文体に代わって、動詞の終止形・連体形による止めや口語の使用が定着し、素材の拡大とともに即物非情・知的構成と言われる作風を確立してゆく[14][6]。『凍港』序で高浜虚子は「従来の俳句の思ひも及ばなかつたところに指をそめ、所謂辺境に鉾を進むるの概がある」と誓子を評した[6]

掲句のうち「かりかりと」「ほのかなる」「夏草に」「ピストルが」「夏の河」はそれぞれ連作として発表されたもののうちの一句である。連作俳句は同時期に水原秋桜子も多く試みているが、秋桜子の連作はあらかじめ全体の構成を考えて作句されるもので、絵巻物のように景が展開し設計図式と呼ばれる。これに対し誓子の連作は、特定の題材をもとに一句一句乗り移るように次々と独立の句を作りのちに取捨・編集するというものでモンタージュ式と呼ばれる[15][16]モンタージュは1920年代にロシアで登場した映画理論で、二つ以上のショット(一続きの映像)を組み合わせて一つのシーン(場面)を表現する技法である。当時寺田寅彦がすでに連句や発句における取り合わせと関連付けてモンタージュを論じていたが、誓子はこれに影響を受け、写生によって得た素材に知的操作を加えて世界の創造を行うという自身の「写生構成」論に援用した[17]

ただ、誓子は連作と一句におけるモンタージュの意義を区別しており、注意が必要である。戦前の誓子は、一句独立におけるモンタージュをエイゼンシュテイン的な「衝撃」とする一方、連作のモンタージュはプドフキン的な「連鎖」と論じている[18]。加えて、「夏草に」句で著名な「汽罐車」連作では「衝撃」としてのモンタージュではなく、ヴァルター・ルットマンの映画『伯林』に代表されるような「メロディー」「シンフォニー」といった意味でのモンタージュを実践しており、現在の定説であるエイゼンシュテイン的な「二物衝撃」と異なる原理で連作を構成していたことが論証されている[18][19]。そもそも、エイゼンシュテインのモンタージュ映画で有名な『戦艦ポチョムキン』は戦前の日本では上映が禁止されており、誓子は上記のプドフキンやルットマン、ジェルメーヌ・デュラックといった前衛映画から示唆を得て「写生構成」の実践を試みていた[18][20]

都会的素材や連作俳句は新興俳句運動において後進に波及し、その中から無季俳句を作る流れも出てくるが、秋桜子と同様誓子も無季俳句からは距離を置いた[21]

新興俳句は誓子作品の文体に強い影響を受けており、例えば「京大俳句」の俳人たちは誓子の「スケートリンク」連作発表直後から率先して誓子連作を模倣したような作品を多数発表している。それも、自らの作品が誓子の「スケート」連作から影響を受けていることを誇示するような作風を発表していたことから、誓子が作りあげた文体が当時いかに斬新であったかがうかがえるとともに、新興俳句の俳人たちにとって誓子がいかに憧憬の存在であったかがうかがえる[22][23][24]

戦後は病気療養や新興俳句弾圧、敗戦などの経験を経て、自然物との対峙によって己を確かめるような句風に変化。「天狼」では「酷烈なる俳句精神」を実現したいと表明し徹底して写生構成・即物具象を説いた。また「出発の言葉」の「俳句の深まりが、何を根源とし如何にして現るゝかを体得した。」(「天狼」創刊号)から「根源俳句」を提唱した。晩年は自身の俳句を芭蕉を継承するものとして、写生、取り合わせ、客観描写を強調した[25]
著書句碑「流蛍の自力で水を離れ飛ぶ」 摂津峡句碑「燃えさかり筆太となる大文字」 京都三条川端句碑「碧の濃き灘通り来し土用波」御前埼灯台
句集

『凍港』(素人社
、1932年)

『黄旗』(竜星閣、1935年)

『炎昼』(三省堂、1938年)

『七曜』(三省堂、1942年)

『激浪』(青磁社、1946年)

『遠星』(創元社、1947年)

『晩刻』(創元社、1947年)

『妻』(細川書店、1949年)

『青女』(中部日本新聞社、1950年)

『和服』(角川書店、1955年)

『構橋』(春秋社、1967年)

『方位』(春秋社、1967年)

『青銅』(春秋社、1967年)

『一隅』(春秋社、1977年)

『不動』(春秋社、1977年)

『遍境 句文集』(五月書房、1979年)

『雪嶽』(明治書院、1984年)

『紅日』(明治書院、1991年)

『大洋』(明治書院、1994年)

『新撰大洋』(思文閣出版、1996年)

選句集・全集

『玄冬 自選句集』
改造社、1937

『夜月集』第一書房、1939

『断崖 自選句集』目黒書店、1946年

『誓子句彙』第1-2 土書店、1946 

『光陰 自選句集』改造社、1947年

『誓子自選句集』新潮文庫 1961

『定本山口誓子全句集』集英社 1967

『山口誓子句集』白凰社、1969

『山口誓子句集』西東三鬼編 角川文庫、1952

『山岳』松井利彦編 ふらんす堂 1990

『季題別山口誓子全句集』本阿弥書店 1998

『山口誓子全集』全10巻 明治書院 1977

随筆・評論など

俳句諸論 河出書房、1938

俳句鑑賞の為に 三省堂、1938

秀句の鑑賞 三省堂、1940

宰相山町 随想集 中央公論社、1940

海の庭 随筆 第一書房、1942

伊勢詣 非凡閣、1944 

滿洲征旅 滿洲雜誌社 1944.9

子規諸文 創元社 1946

街道筋 随筆集 万里閣、1946

わが歳時記 正続 創元社、1947-49 

俳句の復活 白玉書房、1949 

春夏秋冬 中部日本新聞社 1951

句碑をたずねて 朝日新聞社 1965

花蜜柑 朝日新聞社 1967

俳句鑑賞入門 創元社‖創元手帖文庫 1967

鑑賞の書 東京美術 1974

俳句の心 毎日新聞社 1975

四季吟行 創元社 1975

旅を行く 求竜堂 1981.9

俳句添削教室 玉川大学出版部 1986.2

山口誓子俳句十二か月 松井利彦
編 桜楓社 1987.9

季語随想 桜楓社 1987.9

天狼俳句鑑賞 松井利彦編 求竜堂 1987.9

脚注[脚注の使い方]^ 山口誓子『出身県別 現代人物事典 西日本版』p458 サン・データ・システム 1980年
^ a b 『山口誓子集』 269頁。
^ 『山口誓子集』 261頁。
^ 『山口誓子』 13頁。
^ 『山口誓子』 13-14頁。
^ a b c 『現代俳句大事典』 572-574頁。
^ 『朝日新聞』1987年3月28日(東京本社発行)朝刊、26頁。
^ “朝日賞 1971?2000年度”. 朝日新聞社. 2022年8月29日閲覧。
^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)242頁
^ “山口誓子記念館”. 神戸大学研究推進部研究推進課. 2022年9月25日閲覧。
^ 『定本現代俳句』 178-179頁。
^ 『定本現代俳句』 185頁。
^ 『山口誓子』 14頁。
^ 『山口誓子集』 269-270頁。
^ 『図説俳句』140-141頁。
^ 『山口誓子集』 270頁。
^ 『現代俳句大事典』 564-565頁。
^ a b c ”青木亮人「「汽罐車」のシンフォニー 山口誓子の俳句連作について」、「昭和文学研究」73,2016年3月” [1]
^ “青木亮人「趣味と写真と、ときどき俳句と38 山口誓子「汽罐車」連作の学術研究とモンタージュ映画」(サイト「セクト・ポクリット」)”. 2023年7月31日閲覧。
^ “青木亮人「趣味と写真と、ときどき俳句と40 山口誓子「汽罐車」連作の学術研究とモンタージュ映画の続き」(サイト「セクト・ポクリット」))”. 2023年8月28日閲覧。
^ 『山口誓子』 8頁。
^ 青木亮人「「新興」スケート・リンク 『京大俳句』の誓子憧憬について」、「同志社国文学」70,2009年3月
^ 青木亮人「「京大俳句」スケート句の舞台」、「俳文学研究」51号,2009年3月


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:91 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef