徳佐(旧阿東町)(1991年 - 2020年)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)16.8
(62.2)20.1
(68.2)23.4
(74.1)28.9
(84)32.2
(90)33.7
(92.7)36.1
(97)36.4
(97.5)35.1
(95.2)30.7
(87.3)25.5
(77.9)21.8
(71.2)36.4
(97.5)
平均最高気温 °C (°F)6.4
(43.5)7.9
(46.2)12.2
(54)18.1
(64.6)23.0
(73.4)25.7
(78.3)29.1
(84.4)30.4
(86.7)26.3
(79.3)21.0
(69.8)15.2
(59.4)9.0
(48.2)18.7
(65.7)
日平均気温 °C (°F)1.8
(35.2)2.8
(37)6.3
(43.3)11.7
(53.1)16.8
(62.2)20.5
(68.9)24.4
(75.9)25.1
(77.2)20.9
(69.6)14.8
(58.6)9.2
(48.6)3.9
(39)13.2
(55.8)
平均最低気温 °C (°F)?2.1
(28.2)?1.9
(28.6)0.8
(33.4)5.6
(42.1)11.0
(51.8)16.3
(61.3)20.8
(69.4)21.2
(70.2)16.7
(62.1)9.6
(49.3)3.9
(39)?0.4
(31.3)8.5
(47.3)
最低気温記録 °C (°F)?12.9
(8.8)?16.0
(3.2)?9.5
(14.9)?4.1
(24.6)0.7
(33.3)4.6
(40.3)12.2
(54)13.1
(55.6)3.9
(39)?1.5
(29.3)?4.4
(24.1)?10.4
(13.3)?16.0
(3.2)
降水量 mm (inch)121.9
(4.799)106.3
(4.185)146.7
(5.776)136.6
(5.378)153.7
(6.051)229.5
(9.035)337.8
(13.299)201.5
(7.933)208.6
(8.213)116.7
(4.594)97.4
(3.835)116.3
(4.579)1,973
(77.677)
平均降水日数 (?1.0 mm)15.813.513.711.010.012.613.110.911.69.210.714.1146.2
平均月間日照時間66.586.6133.7172.5193.0127.0136.0171.3129.6150.5112.374.81,553.5
出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[5]
人口「都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位」も参照
山口市の人口は、1955年の国勢調査以降、全国の県庁所在地の中で長らく最下位であった。平成の大合併の動きの中、2005年10月に秋穂町・阿知須町・小郡町・徳地町・山口市が合併し3代目の山口市が誕生したことで人口が約5万人増加し、2005年の国勢調査では三重県津市を抜いて一時的に最下位ではなくなった。しかし2006年1月1日に津市が周辺9市町村と合併すると再び山口市が最下位となった。その後、2010年1月16日の阿東町との合併もあり2010年の国勢調査では島根県松江市を上回る46位。2015年の国勢調査では、鳥取県鳥取市、山梨県甲府市を上回る45位(全国の都市では112位)となっている(山口県内の最多は下関市の83位)。
都道府県庁所在地としては静岡市、富山市、札幌市に次いで4番目に面積が広く、人口密度は最も低い。また、全国の都道府県庁所在地47市区のうち、人口密度が都道府県全体のそれよりも低いのは山口市のみである。
山口市と全国の年齢別人口分布(2005年)山口市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 山口市
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
山口市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)160,347人
1975年(昭和50年)164,470人
1980年(昭和55年)173,590人
1985年(昭和60年)183,149人
1990年(平成2年)187,793人
1995年(平成7年)193,172人
2000年(平成12年)197,115人
2005年(平成17年)199,297人
2010年(平成22年)196,628人
2015年(平成27年)197,422人
2020年(令和2年)193,966人
総務省統計局 国勢調査より
山口市の地名を参照。
地名
歴史山口市中心部周辺の空中写真。
2009年9月7日撮影の12枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
南北朝時代の延文5年/正平15年(1360年)に周防国を平定した大内弘世が大内氏の本拠地を吉敷郡御堀氷上(現在の山口市大内御堀)から現在の山口市中心部に移したのがルーツとされている[注 1]。室町時代には大内館が築かれ、日明貿易が行われる。応仁の乱以後には京から乱を逃れてきた文化人を歓迎したので大内文化、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めた。義興に庇護され後に京へ戻った室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)、雪舟、フランシスコ・ザビエルなど、この町に縁のある人たちは多い。
天文21年12月9日(1552年12月24日)に山口の宣教師コスメ・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。このため、日本のクリスマスの発祥の地は山口である。
大内氏の滅亡後、毛利氏の支配のもとで山口奉行が置かれたため山口は防長二国における政治的中心地となった。関ヶ原の戦いののち、防長二国に減封された毛利輝元が萩に居城(萩城)を構えたため、山口の政治的中心性は一旦消滅することとなった。
江戸時代の間、吉敷毛利家の領地となり萩と三田尻(現在の防府市中心部)を結ぶ萩往還の中継地として栄えた。幕末になると、長州藩は藩庁を萩から山口へ移す(この経緯については山口移鎮の項目を参照)。山口に移された藩庁は山口政事堂と呼ばれ、長州藩における討幕運動の拠点となった。
明治に入ると廃藩置県が実施され、長州(山口)藩庁は山口県庁にそのまま移行した。一時期県庁移転が提起されたこともあったにもかかわらず、実現には至らなかった。山口は山口県成立から現在に至るまで、そのまま県政の中心地であり続けている。
一方、長州藩の藩校である明倫館は藩庁移転の際に私塾山口講堂(後に山口講習堂)を「山口明倫館」と改称(萩明倫館も存置)、旧制山口高などを経て、現在の山口大学へとつながっている。山口大学は1973年に平川へ移転完了したが、旧亀山校地(山口明倫館跡地)にはパークロード(県道203号)を中心に県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備されている。
2024年、ニューヨーク・タイムズの『2024年に行くべき52カ所』に選ばれた[6]。