山内溥
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多角経営時代とレーザークレーの負債を完全返済しても、ありあまるほどの規模となる利益を任天堂にもたらした(横井によると5000万台売れたという)。「ゲーム&ウオッチ」は「ゲームボーイ」の原型となった携帯ゲーム機であり、マリオやドンキーコングといった後に任天堂を代表することになるキャラクター達は、この時期に生まれている。
ファミコンにより社会的ヒット
この直後、「アーケードゲームを家庭で」という目的に据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の開発が始まる。この際、山内の「アーケードはもうやめや」の一言で、アーケードゲームの事業規模を急激に縮小させ、家庭用テレビゲームに専念する体制が取られた。宮本茂は「こんなことしていいのかと思った」という。1983年7月に「ファミリーコンピュータ」を発売し、当初はゲーム&ウオッチのキャラクターが登場する『マリオブラザーズ』『ドンキーコング』や、『ゴルフ』『ベースボール』『テニス』『サッカー』と言ったスポーツゲームや、『麻雀』などの大人向けゲームなどが人気を得ていた。1984年7月に発売されたハドソンの『ロードランナー』が140万本、同年11月に発売されたナムコの『ゼビウス』が127万本を販売されると、タイトーコナミカプコンといった現在まで続く有名メーカーが相次いで参入した。その後、1985年9月に『スーパーマリオブラザーズ』が売上681万本という超人気ソフトとなり、1986年には『ドラゴンクエスト』、1987年には『ファイナルファンタジー』、1988年には『スーパーマリオブラザーズ3』『テトリス』などが発売され、こうした大ヒット作に恵まれる形でファミコンは世界的な大ヒットを記録して、任天堂は世界的な企業へと成長していく。
ゲームボーイ、スーファミの発売
1989年には携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売し、ファミコン程ではなかったがこちらも大ヒットとなり、以降ゲームボーイシリーズが発売されるに至った。ゲームボーイ開発時には、横井軍平に対し厳しく注文をつけた。なお、「最終デモ機が完成し受け取った際にわざと床に落として強度のテストを行った」という逸話が流布しているが、これについて任天堂広報室は「いつの間にか、そのような話ができあがった」とコメントしている[6]。1990年にはファミコンの後継機である「スーパーファミコン」を発売し、ファミコンを遥かに超える映像と、拡大縮小などのエフェクト機能を駆使したソフトが開発可能となり、ゲーム業界のトップ企業として君臨した。
業界トップからの陥落
次世代ゲーム機競争に敗れる
1996年には「
NINTENDO64」を発売したが、1994年にソニーから発売されたPlayStationが、次世代ゲーム機競争を制して爆発的ヒットを記録しており、大手ゲームメーカーは「大容量CDによるムービー映像」「ボーカル楽曲や高音質のBGM」「3DCGによるゲーム制作」に魅力を感じていたことから、任天堂離れが加速していき、やがて業界トップの座をソニーに譲る結果となってしまう。ソニーとは本来、スーパーファミコン用の「CD-ROMアダプタ」である開発コードネーム『プレイステーション』を共同開発する関係であったが、任天堂側がCD-ROM搭載を見送りフィリップスと契約して、ソニーとの契約を半ば一方的に破棄したことから、ソニーは独自ゲーム機の開発にシフトした経緯があった。結果論ではあるが、ソニーのゲーム業界への進出をさせる結果になったことは、山内の経営判断において「最大の失敗」であったと言える。また、理由は明らかにされていないが、スクウェア作品が任天堂でのゲーム販売を許諾されなくなり、1996年から山内退任の2002年に至るまでPlaystationをメインに販売することになった事も、任天堂が苦戦することになった大きな理由であり、山内の経営判断の大きな失敗と言える[7]
GBアドバンス、ゲームキューブも苦戦
2001年には「ゲームボーイアドバンス」、初のディスクを採用した「ニンテンドーゲームキューブ」を発売したが、プレステを上回るヒットにはなり得なかった。
社長退任後
相談役に就任
2002年ハル研究所から同社取締役へと呼び寄せていた岩田聡に社長職を譲り、取締役相談役に就任[2]。岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残した。また、会社の意思決定は社長への一任ではなく、取締役会での集団指導体制へと移行を促した。
DSとWiiの大ヒット
任天堂が巻き返しをして空前の大ヒットとなるのは、2004年12月に発売された「ニンテンドーDS」である。ゲーム&ウオッチで好評であった「二画面」のゲーム機開発を山内が促し、これがニンテンドーDSになった[8][9]。タッチパネルに対応して、「脳トレ」などのこれまでにないゲーム体験を実現し、「1人1台を所有する携帯ゲーム機」として爆発的なヒットを記録した。さらに、2006年12月に発売された「Wii」では、ヌンチャク型のコントローラーを実現して、「剣を振る」といった既存にないゲーム体験をユーザーに提供して大ヒットを記録した。これらの製品の企画開発は、山内が社長時代から動いており、取締役?相談役になってからも貢献している。
晩年

2005年に取締役を退任し、役職は相談役のみとなる。その際、任天堂側からは長年の功績に対する慰労金として12億3600万円を提示されていたが、山内は「それよりも社業に使ってほしい」と、この申し出を断っている[3][10]

2013年9月19日肺炎のため京都市左京区京都大学医学部附属病院で死去した[11][12]。85歳没。葬儀は任天堂本社で社葬として執り行われた[13]
死後

山内は発行済株式10%を保有する筆頭株主であったがそれらは遺族4人が相続した[14][15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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