山中貞雄
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兄姉は長男・作次郎、次男・市太郎、長女・トモ、三男・喜三郎、四男・定次郎、五男・喜与蔵(清弘)である[4][5][注 1]。山中家は宝暦年間から若狭屋を名乗って質屋を営んだが、祖父の5代目作次郎(長男は代々作次郎を名乗った[4])の代には京都の土佐藩邸の掛屋を勤め、前藩主の山内容堂の御用使も命じられた[6]。喜三右衛門も少年時代に小姓として土佐藩邸に出仕し、容堂に英語や酒のイロハを指南されるなどして可愛がられたが、明治維新後は家業を継がず、扇子の製造販売を行う「山中白扇堂」を立ち上げ、貝を骨に貼り付けた螺鈿の扇子を海外に輸出して成功した[6][7]。喜三右衛門は40代になると早々と隠居し、長男が7代目作次郎として家業を継ぎ、作次郎が幼い貞雄の父親代わりとなって面倒を見た[5][8]。また、長女のトモは加藤家に嫁ぎ、息子で映画監督の加藤泰を生んだ[4]

1916年4月、山中は京都市立貞教尋常小学校に入学した[3]。この頃の山中は、休みに兄弟たちと新京極で芝居や映画を見物したり、近所の豊国神社の裏で連続活劇の真似をして遊んだりしていた[7][9]1922年には京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校・附属中学校)に進学した[3]。同級生には後に仕事を共にする脚本家の藤井滋司がおり、1年先輩には映画監督のマキノ正博がいた[10]。藤井によると、学生時代の山中は勉強をほとんどやらず、教室では居眠りをしたり、教科書に漫画を描いたりしていたが[注 2]、それでいて成績はクラスの中位以上をキープしていたという[12]。この頃には映画熱が強まり、小遣銭を貰うとその大半を映画見物に費やした[13]。また、商業学校の映画愛好家たちと『ドリーム・ランド』と題した映画パンフレットを発行し、そこに『十銭白銅奇譚』という習作シナリオを連載した[14][15]
映画界入り

1927年、商業学校5年生の山中は映画監督になることを決意し、マキノ・プロダクション(マキノプロ)の若手スターで新進監督だった先輩のマキノ正博に手紙を出し、同社への入社を希望した[16][17]。さらにマキノの自宅を訪れ、正博の父親でマキノプロを主宰する牧野省三と面談し、入社を認められた[16][17]。同年3月、山中は第一商業学校を卒業したが、同校では卒業論文を書くという大学並みの制度があり、山中は「商品としての活動写真」という論文を提出した[14]。そして4月にマキノプロの御室撮影所に監督志望で入社し、台本部へ配属された[3]。台本部は、各地の支社や常設館に送る新作のレポートを作成する部門で、そこには全作品のシナリオが集まったため、脚本の勉強をするにはうってつけの場所だった。山中も台本部の作業に没頭しながら、たくさんのシナリオに目を通し、脚本作りの勉強をした[16]。マキノプロでは従業員がペンネームを名乗ることが多く、山中もそれに倣って「社堂沙汰夫(しゃどうさだお)」というペンネームを名乗った[16]

入社から2ヶ月後、山中は助監督部へ配属され、マキノプロの代表監督である井上金太郎監督のお盆用の特作映画『いろは仮名四谷怪談』(1927年)で助監督を務めた[3][18]。当時の助監督は、監督の補佐だけでなく、ロケ先の会計、俳優の出迎え、野次馬の整理などの雑事も任され、撮影がうまく進行するために走り回らなければならなかった[19]。しかし、山中はのろまで、いつも何もしないで監督の後ろに立っているだけで、隙あらばカメラのファインダーを覗こうとしてカメラマンに追っ払われた[19]。いつしか山中は「ダメな助監督」として撮影所内に知れ渡り、どの監督からも声をかけられなくなってしまった[19][20]。それでも撮影所は忙しく、会社としてもこのまま山中を遊ばせるわけにはいかなかったため、山中は新人監督の小石栄一などの組についたりして助監督1年目を過ごした[19]

1928年、なかなか監督から声がかからなかった山中は、それを見かねたマキノ正博の組につくことになり、『蹴合鶏』『浪人街 第一話 美しき獲物』などでサード助監督を務めた[20][21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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